2012年9月25日火曜日

ディオニソス的マヌケ美とアポロン的マヌケ美

いつもカタい話ばかりなので今回は趣を変えて音楽のよもやま話の姿を借りたイベント告知を(笑)

「マヌケ美」

一聴するとディスっているようにしか聞こえないかもしれませんが、ガチでとんでもありません!僕なりの究極のホメ言葉なのです!

偶然のマヌケ美、それはいかなる天才も造り上げる事が出来ない生命の秘密が隠された崇高な藝術の秘境......

今日ここでご紹介したいのはその道のマニアには超お馴染み、伝説的名曲です......

「君は人のために死ねるか」杉良太郎(ドラマ「大捜査線」主題歌)

「君は人のために死ねるか?」
「い、いきなりそんな事聞かれても......」(汗)

って感じですよね(笑)

当時人気絶頂だった杉様。時代劇から大胆に路線変更した刑事ドラマ「大捜査線」(因に最終回のサブタイトルも「君は人のために死ねるか」!)の主題歌も「俺に任せろ!」とばかりに張り切られてご自分で作詞(!)して作曲家遠藤実先生に直々にもっていかれ、先生に「アリスの「チャンピオン」みたいな曲風で」とお願いされたそうです.....

しかし杉様の五線譜からはみ出さんばかりの熱すぎる言葉は所謂職業作詞家の「符割り」なる概念など遥かに超越したもの.........

戦後歌謡界を代表する偉大なる作曲家、遠藤実先生でさえ天下の杉様に「この歌詞ではまともなメロディは乗せられない....」とは切り出せず、歌詞に無理やり合わせる形で作曲を強いられた為、結果として不可解な小節数や突然4/4から4/2になったりというビートルズ中期のジョン・レノン、あるいはプログレ的な要素を持つ奇形歌謡曲となっていったのです。

「シェ〜〜!」John Lennon

そのように音楽的には複雑な構成の難曲「君は人のために死ねるか」を文字通り唱い流す杉様のライブもネ申がかっていてカッコ良いんですよ〜!

「君は人のために死ねるか」杉良太郎LIVE

ライブと言うよりリサイタルと呼びたくなりますが、生だとアドレナリンが噴出してどうしてもBPMが上がってしまうものですね!

遠山の金さんお白州シーンを彷彿させる:

戦っとぅぇ戦っとぅぇ〜、ひっそリィ〜死んどぅァ〜....... 
あいつァ何の取り柄もな〜いっ!
素寒貧なァ〜ゥ若者どぅアっとぅぁぁ〜ん〜......

って江戸前のタメの効いたビブラート・ヴォイス、巻き舌、そしてシャウトに胸が熱くなるのをおぼえない人はこの世に生まれてきた意味があるのでしょうか?

この頃の杉様は天下のマダム・キラーと呼ばれていただけにリサイタルの際に客席に降りると女性フアンの手が杉様の悩ましげなタイト☆スラックスの股間にまで伸びてきたそうです。

でも大スタア杉様は動じません!フアンの方々へのサービスだと割り切って、フアンの方の御手にはセクシイな残り香がつく様、あえて股間に大量に香水をかけていたという超人的伝説も!

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しかし杉様、なんの根拠も実績もなくいきなり我々に「君は人のために死ねるか?」なんて神をも恐れぬ究極の問いかけをしている訳ではありません。

阪神大震災の際は山口組と並んで真っ先に私財を投げ打って救援活動をされたらしいです。

更に現在の肩書きは歌手・俳優の他:

ベトナム文化有効協会理事長
法務省特別矯正監
外務省日本ベトナム特別大使
ベトナム社会主義共和国ベトナム日本特別大使
麻薬追放協会会長
合気道五段
緑綬褒章

やはり実生活でも熱い方なんですね〜!

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そしてこのような大自然の驚異ともいうべき偶然の美を「ディオニソス的マヌケ美」とするなら、人間が悩み抜いて絞り出す苦悩の結晶、計算に計算を重ねて絶対美の黄金比を追い求めた末にある確信犯的美はその対局にある「アポロン的マヌケ美」と定義付けられるでしょう。

そんな確信犯的マヌケ美の作品の代表として敢えてこの「君は人のために死ねるか」の21世紀的解釈のカバーであるこの曲を挙げたいと思います。

「君は人のために死ねるか」by 初音ミク

「流し目」まで忠実に再現している辺りにオリジナルに対するこの作者のリスペクトが強く感じられ、非常に好感がもてますね!

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という訳で前置きは長くなりましたがこのような数々の奇形歌謡曲を、あるときは奇跡の超絶ロック・ギタリスト、そしてまたあるときは求道的下ネタ大魔王、高瀬大介氏と共に紹介しながらよもやま話をするという、今風に言うと「トークショー」なるものを今週の木曜日にギロッポンにてやる事になりました!

胸毛がセクシイな孤高のカリスマ・ギタリスト、高瀬大介

この「君は人のために死ねるか」のような知る人ぞ知るディオニソス的マヌケ美、そしてアポロン的マヌケ美をたたえた名曲の数々を赤裸々な下半身ネタをふんだんに混ぜた大人(アダルト)のトークでお送り致します。

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「高瀬企画:どうせなら好きな人とヤラナイト」

日時:昭和87年9月27日(木)18:00〜22:00
料金:当日2千円、ゲスト/携帯Web提示1500円、共に1ドリンク
場所:六本木sonora
出演:高瀬大介/ニシカワケン/サトウリュースケ/鬼の右腕

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エベントの詳細は発起人、高瀬大介氏のブログに書かれております。

「マヌケ美」をこよなく愛するアナタ!是非ともお誘い合わせの上ご足労頂けると嬉しいです!

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完璧なものは愛せない...
でも愛はいつも完璧...

2012年9月20日木曜日

(恋と)全面戦争はちょっとしたきっかけから....(後編)

前編では薩英戦争とイスラム圏の反米デモを例に上げて人間という生き物は本当にささいなきっかけから誰もが望まないとんでもない結果をもたらしてしまう、精神的に実に未熟な動物だという事を書きましたが、この後編では今まさにヒートアップして臨界点寸前な竹島/独島、そして尖閣諸島/釣魚島についての私見を述べさせて頂きたいと思います。

いずれの島も水源すらない為、農作不可でまともに人間が住めもしない(強引に住んでいる人もいるみたいですが、政治目的を除けば全く住居として選択する理由がない)、いわば海に浮かぶ岩のようなものです。

竹島 a.k.a. ドクド

「領海が増える」=「海底資源や漁場が手に入る」という実に人工的理由でそのような場所の領有権を巡って言い争い、暴力沙汰になって、下手したら「全面戦争をも辞さない」という現在の状況。

もし自分達以外の国々の間で起こっている国際ニュースとして客観的にみれば正気の沙汰ではないでしょう。

尖閣諸島a.k.a. 釣魚島

そんな訳で少しの間だけ悟りを開いた禅僧チャネリングして落ち着いて一連の動きをまとめてみましょう。

かなり以前からずっと燻っていた二つの全く別の領土問題が突然このタイミングで同時に噴出するというのも落ち着いて考えてみるとちょっとおかしくないですか?

総選挙も秒読み段階のこの時期に領土問題をエサに国民の愛国心を煽って一番得する人達といえば誰でしょう?  -  本当に裏工作は一切無かったとお思いですか?

文脈とは一切関係ない挿絵

中国の反日デモもツッコミどころ満載です。

日本で例えば反原発デモをする場合、事前に警察や自治体に届け出をしなくてはなりません。個人的にはこの決まりすら理不尽だと思うのですが、中国においては天安門事件以降、届け出をしてもデモは原則一切許可されません。

その辺りはこちらのブログに非常に判りやすく書かれています。

つまり明らかに中国共産党に何らかの利益があるからこそ黙認されている、と考える方が自然だと思うのです。

日本でこそ「暴徒と化したデモ集団は当局には制御不可能」みたいな報道をされていますが、それもかなりキナ臭いというか......

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更にもっともっとそのものズバリな事を言ってしまうと日中韓の関係が悪化し、極東の緊張度が一気に高まる事で一番恩恵を受けるのはどんな人達でしょう?

政局に目が眩み、本当の意味での国益を見失ってしまった政治家、民衆、そして国につけいるのは実にたやすい、という事です。

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こんな事を書くと「しかし自分達の国を自分達で守るのは当然だ!」と主張する人もきっといる事でしょう。僕も気高き自衛に関しては「いや、仰る通りで御座います」と申しておきます。

しかしこれら海から突き出ているだけの人間すら住めない岩を守る事が本当に気高い「自衛」なのでしょうか?

歴史的領土権の話をすればどのような国々でさえ絶対にお互い何らかの言い分があるに決まっているのです。

そこで一方が強引に自分達の言い分をゴリ押しするとどうなるか - 現在のイスラエルとパレスチナを見てみて下さい。

さて、ここで問題です:テルアビブの市営バスでは皆こぞって後部座席の方に乗ろうとしますが、それは何故でしょう?







テルアビブ市街を走る公営バス








答:自爆テロの人(大抵は女性)はバスに乗ってすぐに起爆スイッチを押すので、バスの前方座席は危険だから


これが怒りと憎しみの連鎖反応の結果です。

皆様はたかが海に浮かぶ岩の為にこれからそんな事を考えながら毎日通勤したいですか?

子供が学校へ行く前に「お弁当持った?バスの前の方に乗っちゃだめよ」と毎日言いたいですか?

実際に戦争を体験されている方々だったらこんな例を引き合いに出すまでもないですよね......

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だからといって黙って「ほしいならもってけ!」と言えば良い、と言っている訳でもありませんし、皆様に僕と同じ様に考えて欲しい、と言っている訳でもありません。

ただ過熱した報道や炎上するネットのスレを見てアドレナリンを全開にし、新大久保に行って韓流ショップの営業妨害をしたりするのは先ほども言ったように正に一部の人達の思うツボ。芸をしこまれた熊がサーカスの本番で何も考えずに芸を始めるのと大差はないと思うのです。


日本人に限らず、人類は皆似たような事例で前述の連鎖反応を引き起こしてしまい、これまで何度も痛い思いを散々してきたのですから.........


「この世には無限なものが二つある - 「宇宙」と「人間の愚かさ」 - 但し前者に関してはまだ確信は持てていない。」

アルベルト・アインシュタイン


2012年9月18日火曜日

(恋と)全面戦争はちょっとしたきっかけから....(前編)

日本人が初めて体験した無差別爆撃大東亜戦争末期の1944年頃より始まった「空飛ぶ要塞」B29爆撃機によるものだと思われていらっしゃる方は多いでしょう。

神戸市を爆撃するB29

ミリヲタの方だったら即「いや日本における最初の無差別爆撃は開戦直後の1942年、B25によるドゥーリットル空襲だ」と言われるかもしれません。

空母ホーネットから飛び立つB25爆撃機

実は!日本で最初の市街地への無差別爆撃はそれらより遥かに遡って1863年、前年の生麦事件に端を発した薩英戦争で英国海軍が鹿児島市に対して行った砲撃なのです。

鹿児島市を砲撃する英艦隊

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前置きは長くなりましたが、こんなヲタッキーなトリビアが今回のブログのテーマではありません(汗)!

そもそもこの薩英戦争のきっかけとなったのは「大名行列の真ん中に馬で飛び込んだ」という理由で薩摩藩士によってイギリス人が一名殺害され二名が重傷を負った、かの「生麦事件」が起こった際、当時のイギリス政府が薩摩藩に対し送りつけた要求文。

薩摩藩士に斬りつけられる英商人リチャードソン

この中にあった:


"......hand over the person responsible....."
(直訳:(事件の)責任者を引き渡すよう.....)


という一文で薩摩藩が文字通り真っ青に.......

........というのもこの時の通訳、福澤諭吉がこの「責任者」というのを「藩主」と訳したからのです.......

「そんな要求は当然受け入れられない!」

という事で薩摩藩、つまり現在の鹿児島県は当時地球の地表の4分の1を支配していた「陽の沈む事なき」世界最大・最強の大英帝国との戦争に突入してしまうのです.....

イケメン諭吉、サンフランシスコにて地元の可愛い娘と2ショット

英国側が言いたかったのは「責任者」つまり「(実際に斬った)犯人」を引き渡せ、という事だったのですが、(当時の)日本人、福澤諭吉の感覚だと責任者=当事者/担当者ではなく、責任者=藩主/社長となってしまうのですね。

今日の日本における大きな過失があった際の対処の仕方を見ていると、この辺の感覚は今も昔も実はさほど変わっていないのではないような気もします.......

いずれにしても日本史上初の市民/市街地への無差別爆撃は......

"responsible"

......というたった一語の誤訳/解釈の違いによって起こったのです!

(自分も含めて翻訳を生業とする者はこのエピソード、肝に銘じておきたいところです...)


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話は変わりますが、現在イスラム教圏でもの凄い反米デモの嵐が吹き荒れており、既にリビアの駐アメリカ大使が殺害されるに至って、かなり深刻な国際問題に発展していますが、一応この一連の騒ぎのきっかけになったとされているのはインターネットにアップされたこの一本のビデオなのです:

予言者ムハンマドをネタにした映画 "Innocence of Muslims"

ご覧になればお判りの通り、実にチープな作りで殆どコメディ映画と言っても差し支えない見た目......

なのでイスラム教の信仰に触れた事のない人間にとってこんなショボいビデオが原因で大使が殺害されるなんてにわか信じ難いのではないでしょうか?

しかし実際に、少なくともこのビデオが口実として使われ、もの凄い怒りと憎しみの連鎖反応が生まれ、暴力的デモンストレーションがイスラム教圏で今も連日行われている事は事実なのです。

パキスタン・ペシャーワル市でアメリカ国旗を焼くイスラム教神学生ISOの生徒達

サラエボでの一発の銃弾から東京都23区と大阪市、横浜市の総人口を足したのよりやや多い1,600万人が戦死した第一次世界大戦が起こったように、恋、炉心溶触、そして全面戦争はいずれもちょっとしたきっかけから一気に連鎖反応が起こり事象が指数関数的に増大、気がついたら手遅れになっている、という摩訶不思議な性質をもっているものなのであります........

そのような歴史、若しくは経験値から我々人間が何かを学べるのだとしたら、人間とはたとえ理性を極限まで鍛錬したところで本質的にはいつまで経っても「動物」であるという事だと思うのです。

(人間も含めた)脊椎動物及び節足動物は縄張り意識が本能として備わっています。

人間という動物はこの本能を未完成の理性で半ば強引に正当化しようとする結果、自分達には手に負えない、本当は誰も望んでいなかった結末を引き起こしてしまうのではないでしょうか?

禅問答ではないですが、自分達はそもそも自分達の事を全く理解していないという毅然たる事実をまず理解し受け入れる事が人類全体がもう一次元上にステップ・アップする為の第一歩のような気がする今日このごろ......

そんな流れで後編は昨今ホットな話題を提供してくれている竹島/独島、尖閣諸島/魚釣島について暴論を述べさせて頂きます......

2012年9月14日金曜日

人類最後の日?

今回は日本が輩出した二大天才アニメーターによる最終戦争後に再構築された「理想郷」の解釈を通じて日本人の世代による「理想」の差、或は「理想」そのものの有無に関する仮説を展開してみたいと思います!

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宮崎駿監督の「未来少年コナン」では2008年に最終戦争が勃発し、核兵器を遥かに上回る「超磁力兵器」で人類はほぼ滅亡してしまいます。

超磁力兵器 - 地軸がねじ曲がり、地核が破壊され、大陸がことごとく海に沈んでしまう

対して庵野秀明監督の「新世紀ヱヴァンゲリヲン」では2000年9月13日にやはり核兵器を凌ぐ「セカンドインパクト」で人類が滅亡の危機に瀕します。


セカンドインパクト - 秘密結社ゼーレが偽装した隕石衝突

これがこの宮崎駿と庵野秀明という日本アニメ界が生んだ天才二人によるSF2作品の現代文明崩壊のシナリオなのですが、両者に共通しているのはいずれも核兵器を凌ぐ新兵器によって地球自体の地軸や地殻が壊されて地表の様子が完全に変わってしまうという点です。

しかしそれ以上に興味深いのは共通していない点、つまり最終戦争後の世界の解釈の差とでも申しましょうか....



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宮崎駿のコナンでは二つの対立する勢力 - 「ハイハーバー」と「インダストリア」- という国家/コミュニティーが出来ています。インダストリアは文字通り工業的で既に階級制度が徹底しており重苦しい空気に満ちた場所。そしてハイハーバーは産業革命以前のヨーロッパの田舎のような場所で、ここが物語の中では理想郷的な位置付けとなっています。


ヨーロピアンな雰囲気漂うハイハーバー

庵野秀明のエヴァでは「使途」と呼ばれる敵の攻撃に晒される、街並は90年代の東京そのものの第三新東京市という場所が物語の舞台となっています。そこには70'sビンテージ・カーのアルピーヌ・ルノーA310が走ってるかと思えば、ローソンが普通にあり、中学生は学校の帰りにガリガリ君を食べ、大人はエビスビールを飲んだりしているのです。


通勤ラッシュの第三新東京市

多くの人が密かにこの世界を一度リセットして桃源郷というかアルカディアというか、所謂「地上の楽園」みたいなものを再構築してみたい、という夢を持っていたりするのではないでしょうか?

この2作品に登場する「ハイハーバー」と「第三新東京市」はある意味この2監督のそんな「ノアの箱船コンプレックス」を具現化したイメージだと思うのです(「未来少年コナン」は原作本がありますが、宮崎駿が原型をとどめない程自己流にアレンジしてしまっているのでイメージはほぼオリジナルと言って差し支えないかと......)。



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太平洋戦争開戦の年、1941年(昭和16年)に生まれた宮崎駿。

全共闘世代」 - 戦争の生々しい爪痕を目の当たりにしながら成長し、墨塗り教科書を手に取った戦後教育の申し子である事も相まって反戦思想が強い人達です。エンターテインメントといえば映画が中心、しかも日本では考えられない程の凄いセットで撮影されるアメリカ映画やおしゃれなフランス映画、そしてディズニーに代表されるテクニカラーのフルアニメーションなどを観て育っている為に海外への憧れも非常に強い世代であったといえるでしょう。そして日本の公害問題がピークの頃を若い頃に実体験しているだけに自然回帰、エコへの思い入れも強いのではないでしょうか。

そんな世代の宮崎監督にとって最終戦争を経てリセットした地球の理想像というのはエコで牧歌的、かつヨーロッパ的メルヘン溢れる世界 - ハイハーバー - そこには原点回帰を通じて本来の人間性を取り戻したいという監督の祈りのようなものが見え隠れしているような気がするのです。


ハイハーバー

それから約20年後、高度経済成長期の岩戸景気まっただ中の1960年(昭和35年)に生まれた庵野秀明。

物心ついた時からテレビも冷蔵庫もあり、衣食住に困る事も殆ど無くなった時代。ほぼ同世代のみうらじゅん(1958年/昭和33年生)が「不幸のない不幸」と呼んだほど、極度の貧困は勿論、戦争や大きな自然災害なども経験しなかった世代です。日本の子供向けエンターテインメントも充実し始め、国産アニメやウルトラマンといった実写ヒーローもの等を観て育った為に前の世代ほど海外への憧れは無くなってきています。学生運動も下火になり「しらけ世代」と呼ばれ、団塊の世代の様に現実の社会を変えるより、社会そのものをある種のフィクションとしてとらえる、斜めの見方をし始めた人達です。

そんな世代の庵野監督にとって最終戦争を経てリセットした地球の理想像というのはデジャヴ的現代社会 - 第三新東京市 - 「理想」というものの無責任さと潜在的危険性を見透かしてしまった者が一周まわってたどり着いた境地がこのパラレル・ワールドだったのではないでしょうか......


第三新東京市

勿論これは単に二人の世代の差だけではなく外向的な宮崎駿と内向的な庵野秀明との性格の違いも反映されているとは思いますが、いずれにしても育ってきた環境や社会的背景も全く無関係ではないか、と.........



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何はともあれ!2012年の今も地軸がひん曲がるような最終戦争が勃発していないのはとりあえず有り難い事ですねぇ〜!

2012年9月11日火曜日

爆笑文化比較論(8)最終回 - 僕達の本当の名前は?

未だに不明な要素だらけの人間の脳内回路で「笑い」という摩訶不思議かつ非常に高度な機能のスイッチがオンになる過程の構造を分析し、東洋/西洋文化比較論へと発展させる、というのが今回の連載ブログの趣旨だったですが、とどのつまり笑いの質に上も下もありません。だからユーモアのセンスの優位性や洗練度なんて突き詰めて考えればナンセンスです。要するに:


ウケたらそれで良し!


ただ「それを言っちゃあおしめえよ!」って事もありますので(笑)

流石にこの流れで皆さん既に良くご存知の日本のお笑い番組を紹介してもあまり意味ないんで、皆様の素晴らしい脳に負荷をかける意味でも(笑)日本ではまだ紹介されていないイギリスのコメディで最近観て本当に心から腹を抱えて笑ったのみならず素晴らしくかつ本当の意味で誠実だと思った作品を最後に.....

ご紹介するのはイギリスで毎年チャリティ団体が行っているComic Reliefという番組の中で2007年にリッキー・ジャーヴェイスという人が脚本・主演したコーナーです。

不肖私めが字幕タイトルを付けさせて頂きました.......

Watch Example in 信仰・ライフスタイル  |  View More Free Videos Online at Veoh.com
One Love / Ricky Gervais







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何も考えないで観てしまうとどこまで本気なのか判らないどす黒過ぎるユーモア............

これはリッキー・ジャーヴェイスという人の得意のパターンで「エキストラ:スターに近づけ!」でも実生活でも落ち目のキャリアの俳優に実名で落ち目の俳優役をやらせたりとかして居心地の悪い笑いをとっています。

みのもんたが納豆を奨めたらすぐに「テレビで〜って言っていたから....」といって納豆を買いに行く、あるいは「テレビで安全だと言っていたから」セシウム検出食材を買ったりするような所謂「メディアの良心」を信じて疑わない方々がこのような作品を観たら恐らく嫌悪感すら覚えるでしょう - 帰依している対象の矛盾を指摘された信者の誰もがそうするように。

考える事や選択をする事に疲れてしまった人々が「テレビ」とか「メディア」を信じている、というかもっと正確に言えば「信じたい」という事実は日本もイギリスも大して変わりはないでしょう。

この作品の方に話を戻しますと番組自体が本物のチャリティーである、という状況を最大限利用してメディアや有名人によるチャリティーの本質的偽善、更に言えば我々全員の心の中を巣食う偽善を徹底的に晒す「聖域なき笑い」 - この道徳観の奥深くに突き刺さる笑いを通じてメディアの嘘や偽善を見抜く自律的判断力を受け手に与え、今日信者数世界最大の信仰「メディア教」への強烈な警鐘を鳴らしていると言えるでしょう。

「これこそ英国風ユーモアだっ!」と言い切るのは、ミスター・ビーンだって「英国風ユーモア」だという事を考えるとちょっと違う様な気はしますが「自分自身をネタに笑える」事を至上の美徳とする英国の国民性は多少反映されているかと......


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こういった自己批評的な笑いが育んだ精神土壌だからこそイギリス人の思考プロセスには「弁証法」が根付き、ひいては「議会制民主主義」、「近代司法制度」、「産業革命」、「社会保障」といった所謂近代国家にはデフォルトでついてくるアプリみたいなしくみが造り出されてきたのではないでしょうか?

対して誰でも共有出来る予定調和的な笑いが育んだ精神土壌の日本では治安がよく清潔で何の規制もしなくても自然に先進国の中で平社員とエグゼクティヴの給与差が最も少ない社会が育まれてきたのではないか、と.............


***


この世の事象は全てコインの裏表、つまり長所を長所たるものにしている事が短所にも直結する訳です。ですから文明や文化、言語はてまたは笑いの優劣を語るのは基本ナンセンス。大事なのは満足して努力する事を辞めずに常に前進し続ける事。


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今から15年程前ロンドンで人間のオーラや守護霊が見える女性とお話しさせていただいた際、このようなアドバイスを頂きました:

"Change what you can"
(自分で変えられる部分は変えて行きなさい)

ここにおける「変えられない部分」というのは「自分を自分たらしめている」本来失ってはいけないものではないか、と僕は解釈しました。

これは個人の人生のみならず、言語や文化にも当てはまるのではないかと思います。


***


先日友人の子供が家に遊びに来ていたので一緒に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を久しぶりに観ました。

毎回観るたびに色々な発見がある映画なのですが、今回改めて印象に残ったのは「湯婆婆」に「千尋」という名前を奪われ「千」と呼ばれるようになった千尋がハクに逢った際本当の名前を一瞬思い出せなくなった時、ハクが言ったこの言葉:



自分の本当の名前はとても大事なんだ
湯婆婆は人から名前を奪ってその人を支配するんだよ




この言葉を噛み締めながら皇紀2672年の日本を見渡してみると本当に色々な事に気付かされます。

..........僕達の本当の名前とは何なのでしょう?


***


そんな訳でこの長いブログ・シリーズも今回で終わりです。最後迄読んで頂いて誠にありがとうございました。

もしお時間がありましたら感想や御意見、クレーム等を書き込んで頂けると嬉しいです!

2012年9月10日月曜日

爆笑文化比較論(7)「笑われる」お笑い芸人「笑わせる」Comedian


日本で面白い人への褒め言葉として「おバカ」というのがあります。日本には「おバカ」でないお笑い芸人なんぞ皆無でしょう。

この「おバカ」を最もニュアンスが近い英語に置き換えると「CRAZY」になるでしょうか。

Eels Song(ウナギの唄)from "Mighty Boosh"

この「CRAZY」という言葉を日本語でそのまま「気違い」と訳してしまうととても褒め言葉にはなりませんし、日本の公共電波では放送禁止用語ですらあります。英語社会において"He's crazy!"というのは良い意味でも(時として悪い意味でも)常軌を逸しているとか、日本語でいう「あいつチョーおバカでさぁ〜!」の近似値だったりするのです。

同じく日本の単語「バカ」をそのまま英語で"stupid, fool"といった言葉に置き換えると、やはり日本語における「気違い」と同様決して褒め言葉にはなり得ません。

これは「知性の低い人」或は「バカだけどいい奴」に対して西洋社会は日本社会ほど寛容ではないという傾向とも密接な関わりがあると思います。

例えば「男はつらいよ」の寅さんや、往年の東映任侠映画、オールド・スクールなスポ根系マンガの男主人公なんかが口論する際によく:

「てめぇ、さしずめインテリだな!」

「俺ゃ〜難しい事は判んねえが....!」

みたいな啖呵を切ったりします。こういった啖呵は日本においては「潔い」男らしさの象徴とみなされ、こういうシーンではカタルシスすら覚えますよね。

ところが英国ではこのように最初から議論する事を放棄したりするのは口論の敗北を意味します。ましてや自分の知的劣等性を認めるような言動は殆ど見られません。

そのせいか英語社会においては「理屈っぽい」という属性が日本ほどネガティヴにはとられないのです。

.......とは言っても結局英語社会においても政治やアートに関する口論とかでも結局"Your gay!"(テメ〜はオカマだ!みたいな。しかも炎上するコメ欄とかだと"You're"と"Your"(英語だと発音は同じ)が混濁しはじめる)みたいなレベルに堕ちてしまう事が多いので、とてもいずれかの知的優位性なんて感じられない時も多々ありますけどネ(笑)

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「おバカ」と「CRAZY」- この二つの単語のニュアンスの差にも両者の笑いの質や文化の差が見え隠れしています。

日本で「おバカ」を演じて笑いを誘うのは受け手に「世の中ここまでバカがいるんだな」という安心感も同時に与えてくれたりします。だからそういった事を敢えてやるサービス精神、或は自己犠牲精神が旺盛な方々に日本人は愛情を込めて「こいつバカだよな〜!」と言うのでしょう。


一方日本では自己犠牲と自己顕示欲とのブレンドで周りを引き立てていると位置づけられる「バカ」も所変わって西洋ではよほどちゃんとしたヒネリがないと冷たくあしらわれたり、時には嫌悪感さえ抱かれてしまいます。

いくら「ボケ」てもそこにあくまでも知性と批評精神がないとリスペクトを込めて「S/he's crazy!」とは言われない、つまり「言いたい事がある」100%確信犯である必要があるのです。

ゴルゴダの丘で磔になっている死刑囚が'Always look on the brighter side of life(人生の明るいところを見つめて生きて行こう!)'と合唱
Monty Python's Life of Brianより)
"Cheer up, man!"
「元気出しなよ!」
"You know what they say..."
「よく言うだろう....」

Some things in life are bad
人生は時として酷い
they can really make you mad
そりゃぁムカつく時だってある
Other things just make you swear and curse
時には悪態ついて呪ったりするさ
When you're chewing on life's gristle, don't grumble give a whistle
でもどん底の時こそ文句を言わず口笛吹こうよ
This will help things turn out for the best
そうすれば良い事があるかもしれないぜ
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
Always look on the right side of life
人生のいいとことやらをを見つめて生きようじゃないか
If life seems jolly rotten, there's something you've forgotten
人生なんて下らないって思う時、何かを忘れてはいないか
And that's to laugh and smile and dance and sing
それは笑いと微笑みと踊りと詩
When you're feeling in the dumps, don't be silly, chums
落ち込んでいる時だって自暴自棄になってはダメさ
Just purse your lips and whistle, that's the thing
黙って口笛を吹く、それでいい
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか
For life is quite absurd, and death's the final word
人生はこんなに不条理なのに最後は必ず死で終わる
You must always face the curtain with a bow
カーテンコールではお辞儀をしなきゃいけない
Forget about your sin, give the audience a grin
一生で犯した罪なんて忘れて観客に微笑むんだ
Enjoy it, it's your last chance anyhow...
この世で最後のチャンスなんだから楽しむしかないだろう...
So, always look on the bright side of death
だから、死の明るいところを見つめてみよう
Just before you draw your terminal breath
息を引き取る寸前まで
Life's a piece of shit and when you look at it
人生なんてクソさ、考えてみなよ
Life's a laugh and death's the joke, it's true
人生なんてお笑い、そして死はジョーク、本当だぜ
You see, it's all a show, keep them laughing as you go
いいかい、人生は舞台なんだから客を笑わせ続けるんだ
Just remember the last laugh is on you
最後に笑うのは自分だって事さえ憶えてりゃいいんだ
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか

(訳:西川 顕)

このモンティ・パイソンのような笑いが好きな日本人も多々いる反面、特にこの手のネタを同胞日本人自身がやると「凝り過ぎ」て笑いがとれない事も多々あります。

イギリス人がやると面白がるのに日本人が全く同じ事をやると白い目で見られる、という傾向も、あくまでも自分達は世界のどの民族とも違う日本人の事を本当に理解出来るのは日本人だけ、と信じ込み、「外人」ではない「身内」が予定調和を乱す発言や行動をする事に本能的に不快感を覚える国民性から来ているのではないかと思います。

そのようにお互いの共通項を尊ぶ日本人はもっと感覚的で直接的かつ誰でも判る肌で感じる笑いを好むという傾向があります。ちょっと意地悪な言い方をすれば「世間には自分よりバカがいるんだな」と思わせてくれる笑いがお好きなようですね。

かつて世界史上最大の帝国を築き、今では悪名高き植民地経営もあくまでも「優生学上、人類で最も進化しているアングロ・サクソン人が遅れている非文明人の方々を教育し、産業革命にはじまる輝かしい英国近代文明の恩恵を享受させてあげたい」という、或る意味一神教の布教精神にも通ずる高い志(?)で行われた事。

ナチス・ドイツの功罪/功績でおおっぴらに優生学を引き合いに出すイギリス人は昨今流石にあまりいませんが、世界の人種を「教育する側」と「教育される側」に分けるとしたら自分達はあくまでも前者だという意識は英国民をはじめ西洋の皆さん多いにあると思います。

インテリ至上主義的で競争を好む(特に北ヨーロッパ系の)西洋人は笑いという本来は感覚的な行為の中にも批評性を持たせたい、右脳にも訴えかける笑いを好む傾向があります。こちらもちょっと意地悪な言い方をすれば「このネタで笑える自分は頭が良い」と思わせてくれる笑いがお好きなようですね。

総括すれば日本のお笑い芸人は「笑われる」のが仕事、イギリスのコメディアンは「笑わせる」のが仕事なのではないか、と......

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ここまでの間、なが〜い僕の駄文を読み続けて下さった方、誠にありがとうございました!そんな訳で次回は長かったこのシリーズのいよいよ最終回です!

2012年9月7日金曜日

爆笑文化比較論(6)運命主義的笑いと啓蒙主義的笑い

前回までは日本とイギリスの民族流入とそれによる遺伝子の配合、更にそれがどのように民族性や言語に影響を及ぼしたかについての仮説について淡々と書かせて頂きました。

かたや日本は極東全般の宗教観と民族性のお陰か、ほぼ2,500年に渡って文化、言語、そして「笑い」は仏教や漢字の伝来の時に「変化」はしたとはいえ「破壊」はされませんでした。

対してイギリスは1,000年前にも文化、言語そして「笑い」が大幅に変わってしまう侵略に晒されております。

更に付け加えると英国人は大後悔もとい大航海時代以降、人類史上最大の帝国に肥大していく大英帝国の経営に乗り出しましたが、日本の方は鎖国をして近世に至るまで300年近くもの間、外界からの影響を完全にシャットアウトしてしまいます。

「で、一体それがお笑いと何の関係があるの?」

と思われている方々も少なくはないかと思います..........



海の向こうから来た新しい神も「8,000,001人目の神さん」としてすんなり受け入れてしまう多神教の農耕民族である日本。

「戸籍」という観念が象徴するように、倭民族は先祖信仰から生まれた土地への帰属意識が強く、悠久の長〜い時の流れの中で純粋培養され成熟した文化と言語という確固たる共通項を持つに至った人達なのです。

そんな民族同士にとって:

サービス = 極力煩わせない = 気遣い

それ即ち日本人が好んで言う「あ、うん、の呼吸」であります。言語によるコミュニケーションの限界を無意識のうちに認識し、言語レベルでの人同士の繋がりに対しては諦観すらしている、言い換えれば運命主義的なのではないでしょうか。

ダンシン・ノ〜ルナイ♪言葉にすれば〜
ダンシン・ノ〜ルナイ♪嘘に染まるぅ〜

ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ



それに対してイギリス、そして西洋は同じ神を信仰していてもその定義や教条を巡って摩擦が起きやすい土壌であり、かつ侵略にも必然的に晒されやすい一神教の狩猟民族。

これら民族は長い歴史の中で文化と言語の共通項が希薄な民族とも積極的にコミュニケーションを試みる、又は試まざるを得なかったのです。

西洋には日本のような「戸籍」という概念はなく、あくまでも「出生証明書」。いざとなればご先祖様から受け継いだ土地など捨てて、神から齎された(と時には勝手に解釈して)新しい「約束の地」に乗り換えてしまう事も厭いません。

この民族にとって:

サービス = 相手の嗜好を尊重する = 選択の自由

それ即ち相手の望みをこちらが以心伝心で汲み取るより、齟齬無き明確な言語によるコミュニケーションを重視。言語レベルでの人同士の繋がりに取って代わるものなし、と信じる、つまり啓蒙主義的なのではないか、と。

Only people know just how to talk to people
人間に語りかける事が出来るのはやはり同じ人間だけさ

Only People / John Lennon

和風のサービスは「気遣い」、洋風のサービスは「選択の自由」

これを証明する判りやすい例をご紹介しましょう。

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例えば貴方がどこかの会社にミーティングで出かけていったとしましょう:

自分:「○○社の△△と申しますが、XXXさんと3時に約束があるのですが」
受付:「判りました。XXXは只今電話中なのでこちらの会議室でお待ち下さい」

といってミーティング・ルームに通されて:

受付「こちらでしばらくお待ち下さい。すぐに参りますので」

ここまでの流れは東京であってもロンドンであってもほぼ同じです........



しかし!そこが東京であったら受付の方は直ぐに夏なら冷たいお茶かアイス・コーヒー、冬なら暖かいお茶かホット・コーヒーをもってきてくれるでしょう。

もし!そこがロンドンだったら

'Would you like something to drink - tea, coffee or mineral water?'

と訊かれます。

"Coffee would be lovely, thank you."

と答えると;

"Black or white?"
"With or without sugar?"
"How much sugar would you like?"

と矢継ぎ早に好みを訊かれるのです。

日本ならコーヒー・フレッシュと砂糖又はシロップを黙っていても一緒に持ってきてくれます。

ただし、日本ではもし貴方がコーヒー・アレルギーだったり或は嫌いだったとしてもこのような場合は大抵何も言わずに黙っているしかないですよね..........

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言語への依存度の差、そして「サービス」の解釈が「気遣い」なのか「選択の自由」なのかというのは「笑い」のツボにも当然影響してくると思います。


運命主義的な前者の笑いのツボというのは非常に感覚的、そして肉体的なスラップスティック系、或はこのような言い方が許されるのなら言語においてさえスラップスティック系の直接的なものとなる。そして啓蒙主義的な後者の笑いのツボというのはより理性に訴えかける批評性の強いものになる傾向がある......

......というのが僕の推論です。

2012年9月6日木曜日

爆笑文化比較論(5)異民族間抗争/共存が言語と笑いにもたらすもの


という訳でかなりさっくりと日本列島&ブリテン諸島の民族流入の歴史を辿ってみました。お互いに島国根性的アイデンティティーがありながら遺伝子的にはかなり複雑に混ざっている事が解っていただけたかと思います。

そして残念ながら一部の愛国者の方々が願っていた程日本は「選ばれた大和民族からなる純血な単民族国家」ではないのが遺伝学に基づいた真実です。

日本の縄文人と弥生人の共存と比べますとイギリスにおいてはローマ人にしてもサクソン人にしても自分達の生活圏に他民族の文化や言語が共存する事をほぼ容認していない、という点は興味深いと思います。

いかなる乱世であっても所詮男は男、女は女 - という事で当然そういったロマンティックなレベルでの愛の交歓&交配は多々あったとは思いますが、例えば現在の英語を見るとケルト語が語源となっているボキャブラリーは極端に少ないのです。日本では先住民族が後から来た民族の文化や言葉をあまり抵抗なく取り入れていたのに対して、太古の英国ではどうもそこまで平和的に文化交流が進んでいたような印象がないのです。

八百万の神を信仰する日本人は最初にキリスト教が伝来した際「また一人神様増えただな。めでてえ、めでてえ」とか何とか言って(たかどうかは定かではありませんが)何の抵抗もなく受け入れた(無論それから百数十年後に主に政治的な理由で幕府によって禁止令が公布されますが....)のに対して一神教の文化圏では「唯一無二の神」の解釈を巡って激しい殺戮が繰り広げられていた歴史をみても判るかな、と。

一神教・狩猟民族のヨーロッパでは他民族が侵入してくると大抵は結局完全討伐若しくは奴隷化というふうになっております。これは近世でも南北アメリカ大陸やオーストラリアにおいて起こった出来事を見てもお判りかと思います。

これは過去千年間に地球上で起こった戦争を表している動画ですが、ご覧になれば判る通り、ヨーロッパ(= 一神教・狩猟民族の地)における紛争の数は他の地域を圧倒しています:




子供達の「いじめ」でも判るように人間という生き物は「異物感」というものに素直に敏感に反応する「排他性」が本能としてあるのだと思いますが、それが故かやはり言葉、そして「笑い」の全く通じない異民族による侵略は共通言語(そして共通の笑いのツボ)がある人達の侵略と比べると人や物そして被支配民族の文化(言語も含む)の破壊が執拗なまでに徹底しているようです。

日本人も基本排他的民族だとは思いますが(排他的でない民族なんておそらく世界にはいないでしょう)、その反応はヨーロッパ人ほどシステマチックではなく、むしろ本能的かつ陰湿。システマチックではないが故にナチスのユダヤ人大量虐殺のような極端な方向に走る事もない反面で現在西洋で盛んな反人種差別教育やキャンペーンとかで啓蒙するのも難航している、という気がします。

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かつてケンブリッジで民俗学を専攻していたイギリス人の友人が「アングロサクソン民族が他の民族よりよりも優れている唯一の点は戦いと人殺し」と自嘲的に言っておりましたが、僕も色々考えてみると日本人がロシア人と中国人には戦争で勝ててもアメリカ人とイギリス人には勝てなかった理由というのは何となく判るのです。

どちらが勇敢だったか、どちらが戦士として優秀か、或はどちらがより残虐だったか、といった議論はさておき、一つだけ言えるのは:

兵士一人ノ犠牲ニツキ敵兵二人以上、極力最高ノ効率ニテ敵ヲ殺シ、戦二勝ツコトコレ最優先課題、ソノ目的ノ障害トナル要素ハ一切排除、絶対二自分達ノ生活圏ヲ守リ民族トシテ生キ延ビルベシ

という点に於いてはアングロサクソンという民族は倭民族より遥かに徹底していたと思います。

その点に関して英国の歩んで来た争いの歴史との因果関係は容易に指摘出来ますが、実は言語や笑いのセンスとも無関係ではないと思うのです..........

そのような訳で次回はそんな多神教の農耕民族と一神教の狩猟民族の笑いのツボの差を比較してみます!

2012年9月5日水曜日

爆笑文化比較論(4)ブリテン諸島の民族流入


話をイギリスの方に移しますとこちらも最近の遺伝子研究で本来信じられていたイギリス人のルーツとは随分違うという事が判ってきております。

ブリテン諸島には元々ネアンデルタール人が生息していたらしいのですが、彼らはどうやら氷河期が訪れた頃に死に絶えたか暖かい場所へ移住したかで氷河期のほぼ4000年に渡り人類は生息していなかったとされています。

ネアンデルタール人の子供

最後の氷河期が終わる辺りの約16,000年前から約7,500年にまずイベリア半島からバスク人が流入しています。そしてかのケルト系の民族が流入してきたのは約6,000年〜3,700年前。ローマ人が来る以前のブリテン諸島においてはこのケルト人こそ日本でいう「縄文人」にあたる(のかな?)位に文化、言語、遺伝子的にも支配的と考えられていましたが、最近の研究では実はイングランドとスコットランドでは10%未満と遺伝子的には従来信じられてきた程大きな割合を占めていない事が判ってきています。

しかも文化、言語的に最もケルト色が強く、或る意味それが故にアングロサクソン系のイングランドとケルト人としての文化と誇りを守る為に抗争を続けてきたアイルランド人が実は遺伝子的にはイングランド人よりもケルト人の割合が低いという実に皮肉な事実も判明しているのです!

ケルト系ピクト人の女性

またこれまではサクソン人が英語の母体となる言語をもたらしたとされていましたが、新説では実は英語の母体はサクソン人ではなく、ケルト人とローマ人の渡来の間(若しくはローマ軍の支配下の時)に現在のベルギー辺りからやってきたとされるサクソン系のベルガエ人という人達の話していた言語だとも言われ始めています。

この頃は平行して北欧からもサクソン系の人種がブリテン諸島にやってきており、この人達の喋っていた言語もベルガエ人のそれと大きくは異なっていなかったのではないかと推測されています。

その後イエス・キリストが昇天して10年も経たない西暦40年頃。常春の地中海よりローマ人がわざわざドーバー海峡を渡り一年中天気の悪いブリテン島までやってきて今のイングランドにあたる部分を約400年に渡りほぼ制圧、支配する訳ですが、上記の新説が本当であれば既にこの時点で先住民族は既に古代英語のような言語を話していた可能性もあるという事になります。

いずれにせよ日本に弥生人が渡来した時の縄文人と同じようにこの時期に先住民族はローマ人によってブリテン諸島の隅の方に追いやられていきます。

遺伝子には大きく反映されてはいないもののケルトの言語や文化はスコットランドやウェールズ、アイルランド、そしてイングランドの南西といった方面に色濃く残っているという事からも「ケルト人」という概念は遺伝や血統といった人種的なものよりむしろ(少なくともブリテン諸島においては)文化や言語を指すものといってもいいのが現状のようですね。

そして4世紀、従来は今日実質的世界の共通言語の役割を果たしている英語の母体を本州とほぼ面積が同じであるブリテン島に持ち込んだと思われていたアングロサクソン人がやってきた訳で、これまではこのアングロ・サクソンこそが現在に至るまで平均的イギリス人の遺伝子構成の中では最大のグループと思われており、白人のイングランド人も大部分が自分達はアングロサクソンの子孫だ、というアイデンティティーで生きてきたと思うのです。

アングロサクソン人のヘルメット - 7世紀頃

しかし実はアングロサクソン人の遺伝子というのはイギリス人の5%程度にすぎないという結構衝撃的な事実が最近判明しているのです!そうなると南北アメリカを「ラテン・アメリカ/アングロ・アメリカ」という風に分けるのも問題になってきますし、こういった地理用語や歴史用語の見直しも必要に迫られる日が来るかもしれません......

いずれにせよこれまでのイギリス=アングロサクソン&ケルトという図式は少なくとも遺伝子的には正しくなく、平均的コーカソイド系イギリス人の遺伝子グループで最大を占めるのはむしろ氷河期が終わってすぐやってきたイベリア半島系のバスク人及び北イングランドからスコットランドにかけてを略奪しまくったスカンジナビア出身のヴァイキングの中で結局居座っちゃった人達なのです。

更にその後ブリテン諸島のみならず英語という言語のその後の運命を決定付ける事件が起きます.....

1066年 - 日本で言えば1600年にあたる、イギリス人なら誰でも知っているこの年に英国版関ヶ原の戦い -「ヘイスティングスの戦い (Battle of Hastings)」があります。これでなんと多数派の先住民族はフランスから来た僅か6000人程のノルマン人に敗北を喫し、完全に支配されることとなります。

ヘイスティングスの戦いの様子

この支配者ノルマン人の喋っていた1000年位前のフランス語がこれまた英語に多大なる影響を与えていて、当時の階級社会の名残りが現在話されている英語にも如実に残っているのです。

例えば家畜と食肉の名詞を例にとってみましょう:


牛 = ox, cow
牛肉 = beef

豚 = pig
豚肉 = pork

鶏 = hen, cock
鶏肉 = poultry


これら単語の語源を遡ると家畜の段階での名詞(cow, big, hen等)は全てアングロ・サクソン人の古代英語、そして卓上の皿の上に乗っている調理された肉(beef, pork, poultry)はノルマン人の古代フランス語、つまり家畜を育てる被支配階級(アングロ・サクソン人)と彼らが育てた肉を食べる支配者(ノルマン人)という1000年近く前の社会構造がくっきり残っているのです!

更に加えると司法用語なんかもほとんどがノルマン語が語源となっています。

この辺の「ハイブリッドな多重構造言語 - 英語そして日本語」というテーマは掘り下げはじめるとこれまた大変長い話になってしまうのでまた別の機会に譲りますね(汗)。

いずれにせよ言語学的に英語はインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属する訳ですが、喋っている人達の遺伝子はもちろんベースとなっている筈の文化や言語体系も異なっている、それはつまり先住民族が次にきた侵略者によって言葉や文化を放棄させられる事が繰り返された歴史の象徴とも言えるのです。

こうして比べると前回のブログで言及した民族流入の歴史が日本語に残していった跡と比べて、英語という言語にはより過酷な侵略に晒されて現在に至るという歴史がくっきりと刻まれているのです。

そしてこれが両者の精神文化そして今回のテーマ「笑い」にどう影響したのかについての暴論を次回は展開させて頂きます〜!

2012年9月4日火曜日

爆笑文化比較論(3)日本列島の民族流入

最近の遺伝子研究で人類は大体18の遺伝子グループに別れていて、その18種の混ざり具合で世界中の民族ができているらしいという事が判りつつあります。

この辺は学者によってやや意見が分かれていて「いや20グループだ」という先生もいたりしますが、これは要するにある二つのグループをBとCに分類するか、それともB1とB2とサブジャンル化するか、といった定義付けの違いだけでおおまかなところはいずれの説もほぼ共通しております。

いずれにせよ日本人の平均的遺伝子を解析する事で地球のどの辺りに生息していた人種がどの時期に日本列島に移住してきたかがかなり細かいところまで解明されつつあるんですね〜。

そこには従来考えられていた縄文人/弥生人なんて単純な人種構成ではない日本人の複雑な混血ぶりが浮き彫りにされています。

有史以前、まだ大陸と陸続きだった日本に最初に来たのは、現在北方遊牧民族に多いCグループと言われています。おそらくはマンモス・ハンター達です。

下って氷河期、北からC3グループ、間氷期には南からC1グループが来ました。

その後来た第4番目の大きなDグループ、現在は日本とチベットに分布する遺伝子グループですが、これこそ現在の日本人の中で一番多い遺伝子グループで後に縄文人と呼ばれるようになった人達です。つまりダライ・ラマも縄文人の親戚って事ですね!

縄文土器

更にその間わずかですがNグループ、エスキモー系そしてO1グループ、現在のフィリッピン人が僅かにがどこかで流入しています。

その後大挙して移住してきたO2グループがいわゆる弥生人、つまり渡来人系ですね。ただこれまでこのO2は単純に朝鮮半島の民族だと思われていたのですが、どうも遡ると長江文明の末裔だで北に行ったグループが朝鮮、日本に入ったらしいのですね。因に南に向かったO2グループはベトナム、タイに分布します。

弥生埴輪

そして有史以前(っていうか魏志倭人伝のような文献に日本が登場する以前)最後に渡来したO3グループは現在の北京辺りからモンゴル国境まで広がる華北系中国人の主流の人達です。

これら遺伝子グループが現代日本人の遺伝子に占める平均の割合は大体以下のようになります:

Dグループ(縄文人(チベット系))40%
O2グループ(弥生人(渡来人/朝鮮半島系))30%
Cグループ(日本最古の人類と考えられる人達(モンゴル系))10%
O3グループ(中国系)10%
その他10%

このように見てきますとたかが無人島を巡って隣国と争うなんて、云ってみれば隣に住んでいる親戚と幅2センチ程度の垣根の所有権を巡って裁判を起こす位愚かしくそして恥ずかしい行為に思えてきます。

平成埴輪

話が若干(どころじゃない(汗))それましたが、弥生人が日本列島とよばれる土地に渡来してきたのは今から2,500年前。この時に先住民族であった縄文人らとのあいだに何らかの抗争があった事は想像に難くなく、事実遺伝子的にも文化的にも縄文人の特徴を色濃く残している人々は日本列島の南端及び北端である沖縄と北海道に追いやられています。

しかし平均的日本人の遺伝子構成比からも判るようにシベリア辺りからやってきた先住民といい縄文人と弥生人といい多くはそのまま交配して共存していきながら、その過程で今まさに僕がコンピュータで打ち、皆様がコンピュータ又はスマホの画面で読まれている「日本語」 - 声帯によって発声される様々な音の組み合わせに共通認識出来る意味をもたせたものを更に中国から借りてきた表記システムで書き表したコミュニケーション・ツール - がLINUXの様にこれら多くの異なった遺伝子ベースの言語中枢の持ち主達によってオープンソースで共同開発されていった訳です。


そのオープンソースぶりの一例として我々が何の気なしに使っている日本語の語彙における倭言葉と漢言葉の交ざり具合を見てみましょう;

毎日ブログ書こう努力していますがなかなか簡単ではありません。」

=倭言葉
=漢言葉
オレンジ=15世紀以降にもたらされた外来語

全く別の語源の言葉が自然に隣同士に位置している事をみても異民族だった先祖同士が比較的和気藹々と同化していった過程が我々の言語中枢の深い所にも記録されているのです。


戦国時代のように寺や神社には火が放たれ、田畑を荒らされ、国土が荒廃するという時期も幾つかありましたが、そのような中にあってもよそから来て略奪と強姦を繰り返すような恐るべき侵略者とでさえ、少なくとも「言葉」は通じ、そして若干の「笑い」は共有出来た訳ですね。

野武士の侵略に晒される村の子供達を笑わせる菊千代 (映画「七人の侍」)

以来1945年まで約2,500年近く(この数字が皇紀に近いのも全くの偶然ではないかと思いつつ.....)日本の文化、言語そして日本語による笑いは外からの侵略者によって破壊される事なく伝承/発展してきた訳です。

つまり日本は「単民族国家」ではないですが、中国や朝鮮をはじめとする多くの文化から影響を受けつつもその影響が極めて均等に広がりかつスムーズに同化した、云ってみれば「単一文化国家」である、という言い方は(やや乱暴ながら)出来るかと思います。

次はブリテン諸島の民族流入の歴史とそれが実質世界共通語となっている今日の英語とその「笑い」にどのような影響を与えたかを検証してみます!

2012年9月3日月曜日

爆笑文化比較論(2)日英における笑いの違い

かつて洋楽が日本市場でバリバリ売れていた頃「笑いは国境を越えないが音楽は国境を越える」なんて云われておりました。今や洋楽も全然売れなくなって「音楽すら国境を越えない」という時代になってしまいましたけどね〜。

それはさておき既に30年位前よりハリウッドのコメディ映画や洋物コメディ・テレビ番組は日本では成功しない(当然ながら例外も多々ありますが....)という一般認識はあったようです。

同じく日本のお笑いも西洋では基本なかなか笑いがとれないようです。事実、日本のテレビで「お笑い番組」を観た西洋人の方々からは大抵「ちょっと幼稚すぎる」といった冷たい反応が返ってきます。

この両者の温度差において最大の原因の一つが笑い自体が東西問わず近年スラップスティック系からトークを中心とするものへと移行していったという点が挙げられるでしょう。事実、往年のチャプリンの映画は勿論、近年でも言葉より動作で笑わすMr. Beanなんかは例外的に日本でも十分笑いをとれていましたから....

そこには当然「言語と文化の壁」というものがあるのですが、その訳しても訳しきれない「笑いのトリガー」には東西で一体どういった違いがあるのでしょう?

日本と英国、或は西洋全般の「笑い」の最大の相違点は西洋のお笑いには「ツッコミ」というものが(全く無い、という訳でもないですが)ほぼ皆無だというところだと思います。

我が国のお笑いにおけるツッコミの機能とは「ここが可笑しい/面白い!」という点を強調する為のものだと思うのですが、西洋の感覚では「そこは観ている者が脳内で処理するからむしろ面白い、第三者にいちいち指摘されるのは粋じゃない」というふうになるのでしょうか。

この辺の感覚は日本のテレビが執拗な迄にテロップを挿入するのと共通するのかな、とも思います。

因に西洋のバラエティやドキュメンタリーでは音声が聞きとりづらい、訛りが強すぎて一般視聴者には判りづらい、といった明確な理由がない限りまずテロップは入りません。

..........ここまで書いていくと「なんだコイツ、ただの西洋被れじゃないか?」なんて思われそうですが、日本のお笑いもガチで好きですよ - 古くはクレイジー・キャッツからドリフそして爆笑問題、高田純次、ラーメンズから江頭2:50に至る迄好きな人は枚挙に暇が無いです!


と、さりげなく保険を掛けた後で暴論を続けさせて頂きますね(笑)。

よく「英国的ユーモア」って言いますよね?その代表格として常に挙げられるのがかの「モンティ・パイソン」ですが、僕個人はあの番組が西洋のコメディ番組にしては珍しく日本でウケたのは笑いそのものよりインテリの香り漂うナンセンスな内容とテリー・ギリアムの芸術性高そうなコラージュ風アニメがなんというかたまたま「意味判らなければ判らない程カッコいい」みたいなガラスの感性の美大生シンドローム系の人達のハートにジャストミートしたんじゃないか、と。


でも誤解して欲しくないのですが、モラトリアム世代真っただ中において「意味判らなければ判らない程カッコいい=未知の世界の神格化」って知性と精神の成長に実は非常に大事な事だと思うんですね。別にモラトリアム世代じゃない自称「大人」或は「一人前の人間」であっても理解出来る事(=概知の世界)にしか興味が持てない、というのは脳が老化している前兆または老化が既に始まっていればそれを助長すると思います。

つまり脳の筋肉が硬化しない様にするには日々こういった若干の負荷を自分の脳にかけてやるのは大事だな、と。

日本でたまにモンティ・パイソンが大好き!という人から理由を聞くと「いい大人が無意味で超バカな事をしているから」みたいな反応が返ってきますが、ナンセンス=無意味にバカな事をする、というのは笑いに哲学や思想を基本持ち込まない日本のお笑いに馴れた人の目線で、実はモンティ・パイソンのコメディ・スケッチというのはどれも一見ナンセンスなようでその実かなり鋭い文化批評性を含んでいて「ただ理由もなく」バカな事をしている訳ではないのです。

先述のMr. Beanでさえ実はそういった部分はあったのですが、その辺は大抵「不謹慎過ぎて笑えない(訳:クレーム処理が面倒くさい)」というNHKさんの判断でハサミが入ってしまっていたみたいですね。

そういった意味で英国のユーモアとは遡ってオスカア・ワイルドの時代から今日のバンクシーに至る迄、「受け手の脳への負荷が大きい笑い」が主流、つまり言葉や状況をアクロバット的に瞬時に脳内で置き換えてみないと本当の笑いのツボが見えてこないものが多いのです。リアクション芸人に代表される「空気を正しく読んで期待通りの事をする」予定調和的笑いに対して、どこまで受け手の期待を裏切り、誰もが持つ「一般常識」、「共通意識」、「共有価値観」の破壊を試みられるか、という「予定不調和」的な笑いという言い方も(少なくとも僕が上質なコメディと考えるものにおいては - イギリスの笑いにも当然ピンからキリまでありますので.....)出来るかな、と。

言い換えると日本の笑いは「キャッチボール」、英国の笑いは「テニスのラリー」.....

日本人の感覚的には「そこまでややこしくしちゃったら折角の面白いネタも面白くなくなっちゃうよ」となるのでしょうか.....

これは恐らく日本人と英国人という人種が歩んで来た歴史、そして土地の風土とも非常に密接な繋がりがあると思うのです。そんな訳で次回はDNAレベルで両人種の特性を分析、比較してみます!