2012年8月31日金曜日

爆笑文化比較論(1)笑えるのは高等動物の証拠

いきなりカタいのか何なのか判らないテーマのこのブログ、かいつまんで言うと「言語」をマスターする上で文法や語彙と同等、或はそれ以上に重要な、何万年にも渡ってその言語の中にプログラムされ累積されてきた文化/文明の遺伝データという「ソースコード」が「笑い」そのものの中には凝縮されているのではないか、という僕の仮説についてです。

第二、第三の言語を単なるコミュニケーションの道具として使うためにマスターするのが目的、というのは全然OKだと思います。

ただ言語学と民俗学と歴史は三位一体と考えております故、その言語の特性が外的人格(= 国民性)にどのような形でどこまで影響を及ぼすのか、そしてそこで得られた比較対象としての知識を用いる事によって生まれた際に持っていた本来の自分自身 - 手つかずのエゴ - が母国語とそれに付随する文化によって潜在意識下でどのような影響を受け、結果として今、外的世界に存在するペルソナがいかにして形成されていったのかを知りうるところまで、言い換えれば一つのコンピュータにOSを2種類以上インストールするように自分の言語中枢に複数言語をインストールしたいのであれば、その言語に中に脈々と息づいている文化や歴史の理解は必須だと思うんです。

ま、しかし一つのコンピュータにOSを何種類も入れると「コンフリクト」っていうのも起きますけどね(笑)



若気の至りでかつて企画書にクライアントを落とす殺し文句のつもりで「笑いは存在の不条理に対する毅然たる反抗なのです」とかなんとか書いた事がありましたが、奇しくも最近観たマンガの神様の作品「ブラック・ジャック」の中で「笑えるのは高等動物の証拠だ」みたいな台詞がありました。とにもかくにも「笑い」というのは哭く事や唱う事や踊る事と同じく人間という生き物独自の機能であるのみならず、その構造には文化や言語の違いを紐解き、そして究極的には本来の自分自身をより知っていく上でも極めて重要なヒントが多々隠されていると思っています。

仏教における「悟り」とは「本来の自分に戻る事」と説く人もいますが、極論を言えば言語で初期化される前の自分の魂に戻る境地に至る道しるべにすらなるのではないかとすら思う今日この頃.....

次回は個人的に日本の次に文化、言語及び笑いを理解している国、英国を西洋全般の「サンプル」として東西の笑いのトリガーの差について語っていきたいと思います。