2012年11月27日火曜日

音楽のバイオリズム・人生のバイオリズム

「音楽のバイオリズム」っていうのが自分の中にはあるのですが、皆様にも身に覚えとかございますでしょうか?

具体的に説明しますと、まず、とある周期で:

「日本人音楽期」「黒人音楽期」「白人音楽期」

というのがありまして、解りやすく例を挙げますと、日本人音楽期は美空ひばりみたいな演歌を聴きたくて、黒人音楽期はJBとかスライみたいなファンクを聴きたくて、白人音楽期はビートルズみたいなUKロックとかを聴きたい、みたいな感じです。

(解りやす........かったですかねぇ(汗))

更にこれまた、とある周期で:

「電子音楽期」「電気音楽期」

みたいのがあります。電子音楽期にはエイフェックス・ツインみたいなIDM系がハードローテーションで流れ、電気音楽期にはエレクトリック・マイルスとかがヘビロテ、みたいな感じですかね〜

そのまた上に:

「西洋古典音楽風リズム/旋律/和音期」
不協和音/12階調/無調音 (atonal) 期」

がありまして、西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期というのはモーツァルトとかばかり聴いているというよりむしろ東西南北問わず純然たる「黄金比のポップ」な曲に心打ち震える時期、逆に不協和音/12階調/無調音期というのは新しい階律を求めてスケールを脱線するような音楽、或はノイズ、若しくはジョン・ケイジのように音楽鑑賞そのものを再定義するような音に心打ち震える時期なのです。

そして:

「アポロン的音楽期」「ディオニソス的音楽期」

これは先日ブログでも触れましたけど、敢えて言えばアポロン的音楽期の気分はブライアン・ウィルソン、ディオニソス的音楽期はゲンズブールって感じですか.......

こういったムードのフェーズがシンクロしていない為に常に異なったコンビネーションになってその時その時の自分の音の審美感を構成しているのです。

(これはあくまでも僕は、ですが.......)

聴く立場(ラジオDJ)としても創る立場(ミュージシャン)としても、これらのムードの組み合わせが実に大きく影響しているのです。諸々の要素がお互いを影響し合うという意味では西洋占星術のBirth Chart的なものと近いような気もします。

そう考えてみるとこの音楽のバイオリズムなるものは周囲の環境から時代の流れ、はてまたは月の重力とか人間の体や気分をコントロールする色々なものに影響されているのかとも思いますが、とにかく脳内のケミストリーである事は確かだと思うんですよね.....

この「音楽の波長の組み合わせ」なるものを異なった時期に創られたオリジナル曲を幾つか例に挙げて説明してみたいと思います.....

1995年にリリースされた筆者の音楽作品集"Rennaisance Pop"アルバム・アートの一部
 (art direction: Love)

まず今から18年前の1994年にレコーディングされ、95年にリリースした不肖私め最初で最後のソロ・アルバムのラストを飾る、今でも結構気に入っているこの曲なんですが....



この頃はかなりゲンズブールに影響されていまして、タイトルもゲンズブールの名曲「La Javanaise」のもじりですし、曲も完全にシャンソンのパロディです。

当時はFostexのオープンリール8トラック・レコーダーを使っておりました。

FOSTEX R8

ある時たまたまテープの最後が2分ちょっと余っていたのですが、テープは高価でしたし勿体なかったので友人と二人でこの余りの部分で一曲軽く遊びで創ろうって言って恐らく15分位で作曲しました。最後にドラムが変なところで終わっていますが、そこは正にテープが切れたところです(笑)

......と、そんな裏話はど〜でもいいのですが、先程の「音楽期」でいうと当時の自分は:

白人音楽
電気音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声
ディオニソス的音楽

のフェーズだったのではないか、と......

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続いては2004年、元々はファッション・ショー用の音楽として書かれた曲です:



これはIDMとジャズを融合させたような感じになりましたが、意図してこうなった、というよりはたまたまあの4ビートのベースラインが出来た後、自動書記風に出来上がったって感じです。所謂教科書的和音やスケール感はほぼ無視しています。

音楽ソフトはReasonとCubase、そして同じくFostex DMT8という当時既にビンテージだったマルチトラック・デジタル・レコーダーの走りみたいなのを使いました。

FOSTEX DMT-8

この時期に僕の音的審美感を支配していたのは:

黒人音楽
電気音楽(やや電子音楽も入っている過渡期?)
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

ですかね〜。

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次の曲は今年に入ってから創った割と新しい曲です:



元々は南青山にありまするとってもお洒落な大人の隠れ家的バーでプレイするオリジナル曲というイメージで創ったシリーズの一曲です。

ベースになっているのは90年代初頭のダサいイタロ・ハウス、そこにShobaleader 1の頃のSquarepusher、というよりはむしろ初期のBasement Jaxx的な変態宇宙人ヴォイスが乗っかって途中に4小節だけ唐突Stone Roses(笑)みたいな感じです。

これはもうLogic使ってマウスとコンピュータのキーボードだけでほぼ創りました。ヴォーカル以外だと唯一の例外はリズムギター。久々にファンキーなカッティングをプレイしましたが、何しろ最近は楽器を全然いじっていないので腕が鈍っていてレコーディング後のリズムの修正(つまりインチキ)が大変でしたね(笑)Photoshopといい何かと便利な世の中になったものです.....

Apple Logic Pro 9

この曲は恐らくこんな星の巡り合わせだったのではないでしょうか:

黒人音楽
電子音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期
ディオニソス的音楽(ややアポロン的要素あり)

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最後にご紹介するのは現在製作中の青木ヶ原樹海に関するドキュメンタリー用に作曲したものです。これは文字通り先週出来ました:


ドキュメンタリーのメイン・パーソナリティーである友人のアーティスト、クリスチャン・ハグブロムを代々木公園でインタビューをした時のビデオ映像の音の一部を色々いじくっているうちにデスクトップ・ジャム・セッション(笑)みたいな感じになってあれよあれよという間に出来たものです。最初からのイメージ的なものは皆無でした。

これを創った時の脳内セッティングは:

白人音楽
電子音楽
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

だったのかなぁ、と......

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それぞれの時期に使用していた機材という一見「音楽のバイオリズム」とは関連性がないフェティッシュ・ネタ(笑)についても触れましたが、これは何故かと言うと僕は定期的に自分の道具を変えるのが好きだ、という点も強調したかったからなのです。

ものを創る方法論として、個人的に馴れ過ぎた道具を使うのは一歩間違えると創作上で行き詰まった際に手癖で解決するという危険な罠に気づかぬ内に陥りそうだと思うからです。

だったらむしろブライアン・イーノの様にOblique Strategiesみたいなのを使って"εὕρηκα!"と叫びたい.......

勿論、そんな罠に陥らずに一つの楽器の蘊奥を極めていき素晴らしい音楽を創造し続ける音楽家も多々いらっしゃるとは思いますし、それはそれで心から素晴らしいと思います。

しかし自分はそういうタイプではないんです。あまり職人的なものとは無縁、といえば聞こえは良いですが要するに不器用である、と。

音楽は勿論の事、自己表現のメディアですら一定の時期を過ぎたら変えたいと思っておりまする。

「石の上にも三年」と云います故、このようなていたらくでは一生報われる事はないのでしょうね(笑)

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「芸術家は孤独だ」とはよく言われていますが、それはたまたま身近の所謂芸術家肌の人が気分屋で孤独を好む傾向があるとかいう程度で、その真意を理解している人って意外と少ないような気がします。

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かの美空ひばりが一度MCで突然、

古賀政男先生に私は家庭を持って幸せになってはいけない、と言われました。皆様はその意味がお判りになりますか?」

とお客さんに問いかけました。

暫く間をおいてから、悲しそうに微笑んで。

「それはお判りにならないですよね、勿論.......」

と言ってから唱いはじめたのです........

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「安定」とはかくなる魂にとって不治の病のようなものなのかもしれません。





2012年11月6日火曜日

垂直にやってくる西洋の神、水平にやってくる日本の神々

最近「ビギナーズ・クラシックス - 古事記」なる本を読みました。

古事記(ふることふみ、とも詠まれる) - 現存する日本最古の歴史書

僕の読んだ古事記は漢字仮名交じり文バージョン(元々古事記は漢文のみで書かれている)と現代語訳バージョンが併記されているのですが、補足説明として色々なコラムがところどころに出てきます。その中で文字通り「禿同」だったのがこの一文:

そもそも「GOD」を「神」と訳したことから不幸が始まった。
(略)異文化の本質を見極めないと是正には途方もない時間を要することになる。
人間は意思の最終決定に論理よりも情緒を優先するからである。

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西洋のGOD=神=世紀の大誤訳!

......というのは僕も常々考えていた事。

まず西洋のGOD、つまりキリスト教における「神」とは一体どのような存在なのでしょう?

キリスト教をはじめとする一神教の神とはまず「全知全能」 - 絶対的な宇宙の支配者、道徳の守護者で人間が逆らう事なんて許されないばかりか、文字通り畏怖すべき存在なのです。

リスボンのジェロニモス修道院

対して日本の(特に神道における)神様というのは対してどのような存在かというと.....

......気分屋で次に何をするか分かったもんじゃないし、嫉妬もするし、間違いも犯すし、人間の体を借りて酒は吞むわ、異性とは戯れるわと実に世俗的なんですね〜

新宿・花園神社の見世物小屋

天皇崇拝が始まる以前の神道の原始の姿がより色濃く残っている(と筆者が考える)アイヌ民族の間では例えば悪天候が続いたり、生活の糧である鮭があまり川に帰ってこなかったりすると民は「神が仕事を怠けている」と考えて村の長老を中心に「神(カムイ)」に文句を言いに行ったりしていました。

キリスト教をはじめ一神教において完全無欠な「神」に対してクレームをつけるなどというのは(少なくとも信心深い人達にとっては)有り得ない行為です!



そんな「GOD」&「神」 ー この二つの言葉の語源を紐解いてみると..........

「GOD」というのは古代サクソン語の "good" を意味する単語から派生したもの、という説があります。つまりGODは「正しき者」である、という事でしょう。

そこに議論の余地はなく、ひたすら崇め、恐れ、そして全知全能のGODの目において間違いを犯さずに生きる事によって復活の日に蘇らせてもらえる、という契約の主たるGODの絶対性があり、正しい者が正しく祈れば「必ず守ってくれる」存在なのです。

プラハのモルダウ川に架かるカレル橋

対して「神」という言葉には元々「自然の力」或は「不思議な力」という意味があります。全てのものに霊性が宿ると考えるアニミズム的な日本の神様とは「生命の源」とも解釈出来るでしょう。

それは所業の善悪を裁く存在とは全く関係のない、森羅万象の不思議をなんとか象徴としてでも捉えたい、と願う古代の人々の思いが込められており、誰でもお祈りをすれば「もしかしたら守ってくれるかもしれない」という存在なのです。

そんなユルさが故か、我が家の近所にある鳩森神社で夏祭りがあると協賛した方々の名前が書かれた提灯が代々木駅前に並びますが、その中には堂々と日本共産党さんの名前も連ねられております(笑)

「宗教は民衆のアヘンである」カール・マルクス


そんなゆるキャラ的な神々だらけの国、日本にカトリックの宣教師によってキリスト教の完全なる「全知全能の神」がもたらされた際、最初はどうも「神さま」というカジュアルな言葉がしっくりこないからという事で「でうす」とか「天主」とかいった別称が使われていたのです。

例えるなら「百匹の猫(神々)」対「一匹の虎(GOD)」という位似て非なるものですから当然といえば当然でしょう。

しかし結局便宜的な理由で「神」という呼称に統一されたようです.........

十六世紀に九州を中心に耶蘇教(ヤソ教、以前キリスト教は日本ではこう呼ばれており、南方熊楠などは最後迄そう呼んでおりました)が全国的に浸透していった理由の一つに宣教師が連れてきた医者が当時は不治の病だと思われていた人達の命を西洋の進んだ医学療法で次々と救って行ったという事がありました。

西洋においてこのような自然科学が進歩した理由も実はこのGOD/神のコンセプトの違いと無関係ではないと思うのです。

日本のアニミズム的な神々とは言ってみれば自然そのもの。つまり神さまにはクレームはつけてもやはり結局「世は全てよし」。神々(=自然)とは日々仲良く共存していく道を探る訳でございます。

一方西洋において自然とはあくまでも神の創造物であり、神そのものではありません。その中で神が自分の姿に似せて作ったという我々人間は神の下において頂点にあり、自然そのものも自分達の都合で改善していく事が全然アリなのです。

「改善」って日本の国民性を象徴する言葉と云われますが、決して日本人の専売特許ではないんですね。

この自然界に対する自意識の差が程よく教会の権力が衰えたある時点(つまり暗黒時代の終わり)から人々を覚醒させ、ヨーロッパにおいて急激に自然科学が進歩した原動力となったのではないでしょうか?

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もう10年近く前になりますが、奈良県は吉野にありまする知る人ぞ知る「霊界の銀座」天川村に行った時の事です。

丁度その時は村の夏祭りだったのですが、歴史の古い集落だけあって古代の神事の姿を非常に色濃く残したものでした。

天川村の夏祭り

日もとっぷり暮れた頃、最後に村の神社の境内で大きな焚火をする訳ですが、丁度山を背にした境内の隅っこに立って観ていた時、村のおじさんがやってきて、

「兄ちゃん、悪いけどちょっとだけそっちに行ってくれるか?」

と言ってきました。そんなに大勢人がいて混んでいる訳でもないのに変な事を言うな、と思いながら50センチ程横に動くと、

「おおきに。そのくらいで大丈夫や」

人が一人通れるかどうか、という隙間が開いただけです。もし焚火の行列が通るんだったらもっと開けなくちゃ、と思い、

「これからここを誰かが通るんですか?」

と問いかけるとそのおじさんはあたかも当たり前の如く夜の闇にシルエットだけが浮かぶ裏山を指差して、

「あの山から来る神様が通るんや」

つまり背にしていた山から「神」が僕の横を通って焚火のところまでやってくる、というのです......

神が棲む天川の山


先日、友人の結婚式で所謂神式の挙式に参加しましたが、神社(倭言葉では「かむやしろ」)の本殿、つまり御神体の鎮座する場所で誓い合う訳ですが、基本的に御神体とは神棚のほぼ目線上にあります。

縄文時代に「まれびと」と呼ばれていた神は大抵が海の向こうから一年に一回、つまりお祭りの日にやってくる、と信じられていました。

つまり日本の神々は水平にやってくるのです。


対して昔の宗教画からモンティ・パイソンのアニメに至るまで、キリスト教の神様は常に祈る者の上から垂直にやってきます


「天」から垂直に訪れる「GOD」

海や山の向こうから水平に訪れる「神々」 

「上から目線」なんて言いますが、西洋のGODは正にその権化。人間の思い上がりを戒められる唯一の角度に存在するものなのです。

対して日本の神々は人間と目線を共有し、一年に一回遊びにくる来客。ですから「お客様は神様です」というのも、逆に「神様はお客様です」というのも真実なのではないでしょうか。

神事に参加して疲労困憊する筆者(笑)


まあ無神論者の僕にとってはどちらでもいい話ですが.........



2012年10月13日土曜日

損をして得を取れ - 往年のJ-バンドは何故リバイバルしないのか?

昨今、ビートルズのMagical Mystery TourがiTunesで発売されたという事でにわかにBeatles熱が上昇しております。

そもそもこの作品が最初に本国英国のBBCで放送されたのは1967年(昭和42年)のクリスマスの翌日(この日を英国ではBoxing Dayと言います - 筆者がこの世に生を受けて23日後!)。


翌日の新聞では「視聴者を金で操ったビートルズ」等々叩かれまくり、「世紀の大失敗作」の烙印を押されたあの作品を45年経った今ここまでプッシュするのも「もうBeatlesブランドなら何でもいいんかい!」って気もしますが、音楽シーンとか新たに編集されているらしいので悔しいけれどかすかな期待を抱かずにはいられません......

「ビートルズ商法」と呼んでも差し支えないそんなプロモーション・メソッドですが、このような感じでストーンズやツェッペリン、プレスリーといった往年の音楽遺産が毎年リサイクルされているのが英米における音楽産業の現状です。

ところが!往年の日本のバンドとなると今流行っている若手のミュージシャンがインタビューで影響を受けた人とかリスペクトするバンドとかでいくらネーム・ドロッピングをしてもムーブメントと呼べる程にはリバイバルが盛り上がったためしがありません.....

何故なのでしょう?

昨年まで赤坂にある某テレビ局のBSで所謂懐メロ/クラシック・ロックの番組のディレクターをしていたのですが、そこで気付いた事が一つありました。

例えばビートルズとかクイーンみたいな所謂「大物ミュージシャン(笑)」の特集を組むとします。プロモ・ビデオやライブ映像の使用許可をレコード・レーベルに申請すると「60秒以内」とか「編集は禁止」といった諸々の条件こそありますが大抵は無料、もしくは予算内に収まる使用料で使えるので非常に企画しやすかったのです。

しかし邦楽となると........

.........例えば70年代に一斉を風靡し、全盛期にはオリコンチャートで一年の内半分ナンバー・ワンの座に君臨していた某女性二人組アイドルなんて映像はおろか、ジャケットを画面上で見せるだけで事務所に百万単位のお金を払え、と言われるのです.........

(洋楽の場合、大抵肖像権はレーベルとの交渉となりますが、邦楽は事務所なんですね〜)

こんな条件では予算内で番組を制作するのは不可能ですから企画段階でポシャる - つまりこれら過去の音楽資産が人々の目や耳に触れられる機会、即ちプロモーション・チャンスが権利を持っている事務所が目先の利益を追求した結果、単純に失われる訳です.......

この辺は事務所によって多少温度差はあるとはいえ、日本においては基本プロモーションで映像素材を見せるというコンセプトは皆無。あくまでも肖像権でお金を儲けたいみたいなのです。

試食は一切お断り、パッケージと能書きだけを見て買え!って事ですね。

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ちょっと話は変わりますが、数年前に話題になった「FREE」って本を御存知ですか?

この本の序章でモンティ・パイソンがYouTubeで過去のコンテンツの多くを高画質で配信した際のエピソードが書かれています。

YouTubeのモンティ・パイソン・ページには以下の文が寄せられています:

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For 7 years you YouTubers have been ripping us off, taking tens of thousands of our videos and putting them on YouTube. Now the tables are turned. It's time for us to take matters into our own hands.
七年もの間YouTubeの住人どもは俺達を搾取し続け、俺達のビデオを何千もYouTubeに無許可でアップし続けてきた。だがそんな時代は終わった。これからは俺達が主導権を掌握する時がやってきたのだ。
We know who you are, we know where you live and we could come after you in ways too horrible to tell. But being the extraordinarily nice chaps we are, we've figured a better way to get our own back: We've launched our own Monty Python channel on YouTube.
お前らが誰かも、どこに住んでいるかも知っている。口では言えないような恐ろしいやり方でお前らを追いつめる事だって出来る。だが俺達はアリエナイ位よく出来た人間の集まりだ、だからもっと効果的な方法で復讐したいと思う。だからYouTubeにモンティ・パイソン・チャンネルを自分達で作る事にしたんだ
No more of those crap quality videos you've been posting. We're giving you the real thing - HQ videos delivered straight from our vault.
お前らがアップしていたクソみたいな低画質のビデオともおさらばだ。俺達は本物を提供する!蔵出しのハイ・ビジョンのビデオさ。
What's more, we're taking our most viewed clips and uploading brand new HQ versions. And what's even more, we're letting you see absolutely everything for free. So there!
更にこれまで最も人気のあった作品ばかりを優先的にハイ・ビジョンで上げていく。もっと凄いのはこれを全部完全に無料で視聴させてあげるって事だ。どうだい
But we want something in return.
その代わりにお願いがある。
None of your driveling, mindless comments. Instead, we want you to click on the links, buy our movies & TV shows and soften our pain and disgust at being ripped off all these years.
無意味で下らないコメントとかいちいち書かなくてもいいからリンクをクリックして映画やテレビのDVDを買って少しでも俺達の苦悩やこれまで何年もの間搾取されてきた怒りを癒して欲しい........

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この結果、モンティ・パイソンのDVDの売上は2万3000倍にも上がったのです!

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今日のインターネットにおいては音楽や映像は金払うものじゃない、と考えているユーザーが大多数だと思います。

これは好む好まざるに関わらず受け入れざるを得ない毅然たる現実。

それは確かに従来のビジネス・モデルで利益を生み出し続けようとする人達に取っては容認し難い状況ではあると思いますし、それが故に今月の頭より(単なるYouTube閲覧も含まれる)違法ダウンロードに対して刑罰を適用したりしてプレッシャーをかけたくもなるのでしょう。

但しこの著作権法"改正"の裏には隠されたもっと危険な意図が別にあると思いますけどね

事実、AV◯X TRAXのようなレーベルのHPではアクセスするといきなり:

WARNING!
違法にアップロードされたと知りながら
音楽や映像をダウンロードするのは法律違反です!

という警告文が登場します.......


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例えば本屋が二件あったとします。

一件目は店内に入った途端、店員に有無を言わさずこう言われます:

万引きは犯罪ですからね!

もう一件では店員はこう言います:

どうぞ好きなだけ立ち読みして下さい。
そしてもし気に入った本があったら買って下さいね!



貴方ならどちらの本屋で本を買いますか?

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発想を転換する事、或はもっと理想主義的言い方をすれば人間の良心を少しだけでも信じてあげる事で逆境をビジネス・チャンスに変える事だって可能なのです!

そもそも肖像権や著作権を死守する事に拘ってコンテンツをお蔵入りにしたままにして一切人の目に触れる事が無ければ文字通り宝の持ち腐れ。本格的なリバイバルなんてほぼ不可能です。

英国のビートルズやクイーン、米国のプレスリーやカーペンターズがリバイバルを繰り返している裏にはそんな音楽業界の発想の転換があると思います。

逆に60年代のGSや70年代のニュー・ミュージックとか日本語で歌われている音楽であるにも関わらず日本国内ですら同じような規模のリバイバルをしない理由も正にそこにあると思うのです.......

ゴダイゴとか久保田早紀とか原田真二とかの70年代の作品は今聴いても素晴らしいと思いますし、ビートルズみたいにもっと普通に色々なところで目や耳に出来たらステキだろうな〜って思いますけどねぇ.......

 (久保田早紀/異邦人)

判ってはいても崖っぷちに追い込まれる迄は今迄のやり方を変える事は出来ない

江戸時代末期然り、大東亜戦争然り、永遠に学ぶ事を潔しとしない倭民族の本能的行動なのかもしれませんね.......

2012年10月1日月曜日

世界一難しい言語

我らが日の出づる国におきましては外国の方、特にメラニン色素の少ないコーカソイド系の方がそれこそ:

「ワタシノナマエハマイコーデス」

とでも言った日には、

「日本語、お上手ですねぇ〜!」

と手放しでべた褒めするキトクな方って多いですよね。

逆にセイン・カミュ位ペラペラになると誰も褒めなくなるので、在日外国人の間では「日本人に「日本語お上手ですね」と褒められなくなったらその時は本当に日本語が上手くなったと思って良い」なんて通説まである程。

******

「日本語は難しいねぇ〜」

コレ、日本に住んでいると日常生活でよく聞くフレーズですが、そんな慣用句といい、前述の如く金髪碧眼の方が稚拙なフレーズをヒトコトでも発したらベタ褒めしたりする背景には:

日本語は世界一難しい言語

というお国自慢にもにた考えが頭のどこかにあるからだと思うのです。

果たしてそれは本当なのでしょうか?
あるいは日本人だけが勝手にそう思い込んでいるのでしょうか?

ハリウッドにある日本料理店「芸者の宿」

僕は割と世界中の色々な国に友達がいますが、仏人はフランス語の複雑な文法や詩的な言い回しのニュアンスを理解するのは外国人には無理だと言い、英国人は世界で最も同義語が多いと云われる膨大なボキャブラリーを駆使した英語独特の婉曲な表現を外国人が本当の意味で使いこなすのは極めて大変だ、と言い、中国人は何千もの漢字を全部憶え、かつtonal language(声調が異なると意味が異なる言語)を聞き分けたり喋り分けたりするのは外国人には不可能に近いと言います.........

ま、要するに世界中殆どの国の人達が自分達の喋っている言語が一番難しいって言いたい訳です!

はたして誰が本当は正しいのでしょう?



お隣韓国の方々もご多分にもれず「韓国語は世界で一番難易度が高い言語だ」と公言してはばかりませんが、恐らく英国か米国の教育機関が作成したと思われる以下のグラフィックを引き合いに出し「韓国語は世界で最も難しい言語だ」と書いてあるブログが以前ちょっと話題になっておりました:


そのブログによれば一番上にあるスペイン語とオランダ語が最も簡単で、ヒンズー語やタイ語が中級レベル、一番右下の韓国語が最上級レベルの言語だ、との事らしいですが......

......果たしてそれって正しいのでしょうか?

******

「世界一難しい言語」は何なのか?

これはあくまでも私見ですが、その答えは上記のグラフィックの上方にあるフレーズ:

How close the new language is to your native language or other languages you know.
((難易度は)新しい言語があなたの母国語、もしくは知っている他言語にどれだけ近いかによる)

つまり「アナタ」にとって最もマスターするのに時間がかかる言語はアナタの喋る母国語からボキャブラリーや文法構造の接点が最も希薄な言語、という事に尽きる、と思うのです。

英語を母国語としている人達にとって日本語や韓国語が最も難しい言語であるとするならば、その逆もまた真なり、つまり英語は我々日本人や朝鮮半島の方々にとって世界で最も難しい言語である、と言えなくもないのです。

ただ英語のボキャブラリーに関しては日本語化したものも多い為、そこは若干差し引いて考える必要がある、と言えるでしょう。

更に加えて言うと、以前も拙ブログに書いた「笑い」の違いに代表される、各言語のベースとなっている精神文化そのものの違いも真の意味でのFluency(流暢さ)には考慮されなければならない重要な点と考えます。


二つの言語が文法構造的にどれだけ似ているか、若しくは異なっているかはコンピュータさえあれば簡単に調べられます。

Googleとかにある翻訳機能を使ってみて下さい。文法構造や言い回しの特性が近い言語程、より正確に訳され、異なっている程、詩的でシュールな文体になっていくのです(笑)

例えば西ヨーロッパの言語であるフランス語やドイツ語の文章をコンピュータの自動翻訳で英語に訳してみると、ところどころ不自然なフレーズが出てきたりはしますが、9割以上意味は理解出来る文章になります。英語に最も近いといわれているオランダ語や語源の異なるフィンランド語を除くスカンジナビア系言語だと更に正確な文章に訳されるのです。

これがロシア語やアラビア語になるとその正確さは若干下がってきますが、ロシア語なら6、7割は理解出来る完成度です。

ところが!日本語の文章を自動翻訳で英語にすると完全にサイケでシュールな文章となってしまい、題材にもよりますが、なんとなく言わんとしている事が理解できるのは2割程度になってしまうのです。

つまり両言語の特性や文法が異なり過ぎていて、まだ信頼性の高いアルゴリズムが確立されておらず、最近大分改善されたとはいえ、関連性を十二分に把握出来るプログラムは書かれていない、というのが現状です。

逆に英語に限らず、インド・ヨーロッパ語族の言語はおおむね日本語に自動翻訳してもやはりほぼ理解不能な文章になってしまいます。

中国語でさえ日本語に自動翻訳するとちょっと不可解な文になってしまいますね。

僕の調べてみた中で最も自然な日本語に翻訳された言語は:

「韓国語」

でした。

これに近い事が我々の脳内言語中枢においても起こっている、と考えられる訳です。

つまり僕の説によれば日本人にとって最も簡単にマスター出来る外国語は韓国語、そして韓国人/北朝鮮人にとって最も簡単にマスター出来る言語は日本語となるのです。

******

「そうは言ってもやっぱり漢字をおぼえる方がアルファベットをおぼえるより難しいだろう?」と仰る方もいらっしゃるでしょう。

学習、という観点から言えばそうかもしれません。

機能性という観点からいえば........どうなのでしょう?

バイナリー・コード、つまり0と1 からなる二進法 - コンピュータはこの二つの数字の組み合わせだけをベースとして複雑な計算を行っている訳です。

究極的にシンプルなこのシステムは我々の最先端を支える文字通り科学の進歩の象徴と言えるでしょう。

それを言語にあてはめると26文字の組み合わせだけで全てを表現出来る表記システムの方が、新聞一つ読むのも千以上の複雑な記号を覚えなければならないシステムより合理的、進歩的、とは言えないでしょうか?

「漢字には横文字には無い美がある」という方もいらっしゃるでしょう。

いや、それもごもっともです。

しかしアラビア文字タイ文字(シャム文字)だって美しいと思うのです。

タイ語のキーボード

「世界一難しい言語」という観念は相対的なもので自分の母国語によりけり、という話はしましたが、では果たして「世界で最も美しい言語」というのは存在するのでしょうか?

日本人はやはり「日本語が世界で最も美しい言葉」と言いたがるでしょう。

ヨーロッパには「ドイツ語は醜くフランス語は美しい」みたいな通説がありますね。

しかしこれらの「美」の優劣を裏付ける決定的証拠なんて僕は見た事も聞いた事もありません。

「ピカソの絵とゴッホの絵のどっちが上手い?」なんて訊かれたら普通に思考停止してると思いません?

僕のように言語フェチにとっては(そしてそうでなくても)全ての言語が美しいのです。

詩人の心ある人が言葉を選択、羅列して話す時、いかなる言語であってもその言葉を解す人の心を打ちますし、魅力的な声の人が喋る言葉もまた心を奪われるものなのです。

そういった意味では言語は良くも悪くも単なるツール、使い方次第。

もっと言えば「正しい喋り方/標準語」、「良いアクセント/悪い訛」という観念もナンセンス........

........この辺は掘り下げると長くなってしまいますので次の機会に譲りますね(汗)

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我々は皆、自分の言葉、訛も含めた自分の言葉を恥じる必要はありません。誇りをもつべきです。

そして他の人達の異なる訛や異なる言語に対しても同様のリスペクトをすべきです。

実に簡単な事です。

世界中のそれぞれの言語が小宇宙そのものなのです!

2012年9月25日火曜日

ディオニソス的マヌケ美とアポロン的マヌケ美

いつもカタい話ばかりなので今回は趣を変えて音楽のよもやま話の姿を借りたイベント告知を(笑)

「マヌケ美」

一聴するとディスっているようにしか聞こえないかもしれませんが、ガチでとんでもありません!僕なりの究極のホメ言葉なのです!

偶然のマヌケ美、それはいかなる天才も造り上げる事が出来ない生命の秘密が隠された崇高な藝術の秘境......

今日ここでご紹介したいのはその道のマニアには超お馴染み、伝説的名曲です......

「君は人のために死ねるか」杉良太郎(ドラマ「大捜査線」主題歌)

「君は人のために死ねるか?」
「い、いきなりそんな事聞かれても......」(汗)

って感じですよね(笑)

当時人気絶頂だった杉様。時代劇から大胆に路線変更した刑事ドラマ「大捜査線」(因に最終回のサブタイトルも「君は人のために死ねるか」!)の主題歌も「俺に任せろ!」とばかりに張り切られてご自分で作詞(!)して作曲家遠藤実先生に直々にもっていかれ、先生に「アリスの「チャンピオン」みたいな曲風で」とお願いされたそうです.....

しかし杉様の五線譜からはみ出さんばかりの熱すぎる言葉は所謂職業作詞家の「符割り」なる概念など遥かに超越したもの.........

戦後歌謡界を代表する偉大なる作曲家、遠藤実先生でさえ天下の杉様に「この歌詞ではまともなメロディは乗せられない....」とは切り出せず、歌詞に無理やり合わせる形で作曲を強いられた為、結果として不可解な小節数や突然4/4から4/2になったりというビートルズ中期のジョン・レノン、あるいはプログレ的な要素を持つ奇形歌謡曲となっていったのです。

「シェ〜〜!」John Lennon

そのように音楽的には複雑な構成の難曲「君は人のために死ねるか」を文字通り唱い流す杉様のライブもネ申がかっていてカッコ良いんですよ〜!

「君は人のために死ねるか」杉良太郎LIVE

ライブと言うよりリサイタルと呼びたくなりますが、生だとアドレナリンが噴出してどうしてもBPMが上がってしまうものですね!

遠山の金さんお白州シーンを彷彿させる:

戦っとぅぇ戦っとぅぇ〜、ひっそリィ〜死んどぅァ〜....... 
あいつァ何の取り柄もな〜いっ!
素寒貧なァ〜ゥ若者どぅアっとぅぁぁ〜ん〜......

って江戸前のタメの効いたビブラート・ヴォイス、巻き舌、そしてシャウトに胸が熱くなるのをおぼえない人はこの世に生まれてきた意味があるのでしょうか?

この頃の杉様は天下のマダム・キラーと呼ばれていただけにリサイタルの際に客席に降りると女性フアンの手が杉様の悩ましげなタイト☆スラックスの股間にまで伸びてきたそうです。

でも大スタア杉様は動じません!フアンの方々へのサービスだと割り切って、フアンの方の御手にはセクシイな残り香がつく様、あえて股間に大量に香水をかけていたという超人的伝説も!

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しかし杉様、なんの根拠も実績もなくいきなり我々に「君は人のために死ねるか?」なんて神をも恐れぬ究極の問いかけをしている訳ではありません。

阪神大震災の際は山口組と並んで真っ先に私財を投げ打って救援活動をされたらしいです。

更に現在の肩書きは歌手・俳優の他:

ベトナム文化有効協会理事長
法務省特別矯正監
外務省日本ベトナム特別大使
ベトナム社会主義共和国ベトナム日本特別大使
麻薬追放協会会長
合気道五段
緑綬褒章

やはり実生活でも熱い方なんですね〜!

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そしてこのような大自然の驚異ともいうべき偶然の美を「ディオニソス的マヌケ美」とするなら、人間が悩み抜いて絞り出す苦悩の結晶、計算に計算を重ねて絶対美の黄金比を追い求めた末にある確信犯的美はその対局にある「アポロン的マヌケ美」と定義付けられるでしょう。

そんな確信犯的マヌケ美の作品の代表として敢えてこの「君は人のために死ねるか」の21世紀的解釈のカバーであるこの曲を挙げたいと思います。

「君は人のために死ねるか」by 初音ミク

「流し目」まで忠実に再現している辺りにオリジナルに対するこの作者のリスペクトが強く感じられ、非常に好感がもてますね!

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という訳で前置きは長くなりましたがこのような数々の奇形歌謡曲を、あるときは奇跡の超絶ロック・ギタリスト、そしてまたあるときは求道的下ネタ大魔王、高瀬大介氏と共に紹介しながらよもやま話をするという、今風に言うと「トークショー」なるものを今週の木曜日にギロッポンにてやる事になりました!

胸毛がセクシイな孤高のカリスマ・ギタリスト、高瀬大介

この「君は人のために死ねるか」のような知る人ぞ知るディオニソス的マヌケ美、そしてアポロン的マヌケ美をたたえた名曲の数々を赤裸々な下半身ネタをふんだんに混ぜた大人(アダルト)のトークでお送り致します。

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「高瀬企画:どうせなら好きな人とヤラナイト」

日時:昭和87年9月27日(木)18:00〜22:00
料金:当日2千円、ゲスト/携帯Web提示1500円、共に1ドリンク
場所:六本木sonora
出演:高瀬大介/ニシカワケン/サトウリュースケ/鬼の右腕

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エベントの詳細は発起人、高瀬大介氏のブログに書かれております。

「マヌケ美」をこよなく愛するアナタ!是非ともお誘い合わせの上ご足労頂けると嬉しいです!

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完璧なものは愛せない...
でも愛はいつも完璧...

2012年9月20日木曜日

(恋と)全面戦争はちょっとしたきっかけから....(後編)

前編では薩英戦争とイスラム圏の反米デモを例に上げて人間という生き物は本当にささいなきっかけから誰もが望まないとんでもない結果をもたらしてしまう、精神的に実に未熟な動物だという事を書きましたが、この後編では今まさにヒートアップして臨界点寸前な竹島/独島、そして尖閣諸島/釣魚島についての私見を述べさせて頂きたいと思います。

いずれの島も水源すらない為、農作不可でまともに人間が住めもしない(強引に住んでいる人もいるみたいですが、政治目的を除けば全く住居として選択する理由がない)、いわば海に浮かぶ岩のようなものです。

竹島 a.k.a. ドクド

「領海が増える」=「海底資源や漁場が手に入る」という実に人工的理由でそのような場所の領有権を巡って言い争い、暴力沙汰になって、下手したら「全面戦争をも辞さない」という現在の状況。

もし自分達以外の国々の間で起こっている国際ニュースとして客観的にみれば正気の沙汰ではないでしょう。

尖閣諸島a.k.a. 釣魚島

そんな訳で少しの間だけ悟りを開いた禅僧チャネリングして落ち着いて一連の動きをまとめてみましょう。

かなり以前からずっと燻っていた二つの全く別の領土問題が突然このタイミングで同時に噴出するというのも落ち着いて考えてみるとちょっとおかしくないですか?

総選挙も秒読み段階のこの時期に領土問題をエサに国民の愛国心を煽って一番得する人達といえば誰でしょう?  -  本当に裏工作は一切無かったとお思いですか?

文脈とは一切関係ない挿絵

中国の反日デモもツッコミどころ満載です。

日本で例えば反原発デモをする場合、事前に警察や自治体に届け出をしなくてはなりません。個人的にはこの決まりすら理不尽だと思うのですが、中国においては天安門事件以降、届け出をしてもデモは原則一切許可されません。

その辺りはこちらのブログに非常に判りやすく書かれています。

つまり明らかに中国共産党に何らかの利益があるからこそ黙認されている、と考える方が自然だと思うのです。

日本でこそ「暴徒と化したデモ集団は当局には制御不可能」みたいな報道をされていますが、それもかなりキナ臭いというか......

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更にもっともっとそのものズバリな事を言ってしまうと日中韓の関係が悪化し、極東の緊張度が一気に高まる事で一番恩恵を受けるのはどんな人達でしょう?

政局に目が眩み、本当の意味での国益を見失ってしまった政治家、民衆、そして国につけいるのは実にたやすい、という事です。

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こんな事を書くと「しかし自分達の国を自分達で守るのは当然だ!」と主張する人もきっといる事でしょう。僕も気高き自衛に関しては「いや、仰る通りで御座います」と申しておきます。

しかしこれら海から突き出ているだけの人間すら住めない岩を守る事が本当に気高い「自衛」なのでしょうか?

歴史的領土権の話をすればどのような国々でさえ絶対にお互い何らかの言い分があるに決まっているのです。

そこで一方が強引に自分達の言い分をゴリ押しするとどうなるか - 現在のイスラエルとパレスチナを見てみて下さい。

さて、ここで問題です:テルアビブの市営バスでは皆こぞって後部座席の方に乗ろうとしますが、それは何故でしょう?







テルアビブ市街を走る公営バス








答:自爆テロの人(大抵は女性)はバスに乗ってすぐに起爆スイッチを押すので、バスの前方座席は危険だから


これが怒りと憎しみの連鎖反応の結果です。

皆様はたかが海に浮かぶ岩の為にこれからそんな事を考えながら毎日通勤したいですか?

子供が学校へ行く前に「お弁当持った?バスの前の方に乗っちゃだめよ」と毎日言いたいですか?

実際に戦争を体験されている方々だったらこんな例を引き合いに出すまでもないですよね......

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だからといって黙って「ほしいならもってけ!」と言えば良い、と言っている訳でもありませんし、皆様に僕と同じ様に考えて欲しい、と言っている訳でもありません。

ただ過熱した報道や炎上するネットのスレを見てアドレナリンを全開にし、新大久保に行って韓流ショップの営業妨害をしたりするのは先ほども言ったように正に一部の人達の思うツボ。芸をしこまれた熊がサーカスの本番で何も考えずに芸を始めるのと大差はないと思うのです。


日本人に限らず、人類は皆似たような事例で前述の連鎖反応を引き起こしてしまい、これまで何度も痛い思いを散々してきたのですから.........


「この世には無限なものが二つある - 「宇宙」と「人間の愚かさ」 - 但し前者に関してはまだ確信は持てていない。」

アルベルト・アインシュタイン


2012年9月18日火曜日

(恋と)全面戦争はちょっとしたきっかけから....(前編)

日本人が初めて体験した無差別爆撃大東亜戦争末期の1944年頃より始まった「空飛ぶ要塞」B29爆撃機によるものだと思われていらっしゃる方は多いでしょう。

神戸市を爆撃するB29

ミリヲタの方だったら即「いや日本における最初の無差別爆撃は開戦直後の1942年、B25によるドゥーリットル空襲だ」と言われるかもしれません。

空母ホーネットから飛び立つB25爆撃機

実は!日本で最初の市街地への無差別爆撃はそれらより遥かに遡って1863年、前年の生麦事件に端を発した薩英戦争で英国海軍が鹿児島市に対して行った砲撃なのです。

鹿児島市を砲撃する英艦隊

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前置きは長くなりましたが、こんなヲタッキーなトリビアが今回のブログのテーマではありません(汗)!

そもそもこの薩英戦争のきっかけとなったのは「大名行列の真ん中に馬で飛び込んだ」という理由で薩摩藩士によってイギリス人が一名殺害され二名が重傷を負った、かの「生麦事件」が起こった際、当時のイギリス政府が薩摩藩に対し送りつけた要求文。

薩摩藩士に斬りつけられる英商人リチャードソン

この中にあった:


"......hand over the person responsible....."
(直訳:(事件の)責任者を引き渡すよう.....)


という一文で薩摩藩が文字通り真っ青に.......

........というのもこの時の通訳、福澤諭吉がこの「責任者」というのを「藩主」と訳したからのです.......

「そんな要求は当然受け入れられない!」

という事で薩摩藩、つまり現在の鹿児島県は当時地球の地表の4分の1を支配していた「陽の沈む事なき」世界最大・最強の大英帝国との戦争に突入してしまうのです.....

イケメン諭吉、サンフランシスコにて地元の可愛い娘と2ショット

英国側が言いたかったのは「責任者」つまり「(実際に斬った)犯人」を引き渡せ、という事だったのですが、(当時の)日本人、福澤諭吉の感覚だと責任者=当事者/担当者ではなく、責任者=藩主/社長となってしまうのですね。

今日の日本における大きな過失があった際の対処の仕方を見ていると、この辺の感覚は今も昔も実はさほど変わっていないのではないような気もします.......

いずれにしても日本史上初の市民/市街地への無差別爆撃は......

"responsible"

......というたった一語の誤訳/解釈の違いによって起こったのです!

(自分も含めて翻訳を生業とする者はこのエピソード、肝に銘じておきたいところです...)


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話は変わりますが、現在イスラム教圏でもの凄い反米デモの嵐が吹き荒れており、既にリビアの駐アメリカ大使が殺害されるに至って、かなり深刻な国際問題に発展していますが、一応この一連の騒ぎのきっかけになったとされているのはインターネットにアップされたこの一本のビデオなのです:

予言者ムハンマドをネタにした映画 "Innocence of Muslims"

ご覧になればお判りの通り、実にチープな作りで殆どコメディ映画と言っても差し支えない見た目......

なのでイスラム教の信仰に触れた事のない人間にとってこんなショボいビデオが原因で大使が殺害されるなんてにわか信じ難いのではないでしょうか?

しかし実際に、少なくともこのビデオが口実として使われ、もの凄い怒りと憎しみの連鎖反応が生まれ、暴力的デモンストレーションがイスラム教圏で今も連日行われている事は事実なのです。

パキスタン・ペシャーワル市でアメリカ国旗を焼くイスラム教神学生ISOの生徒達

サラエボでの一発の銃弾から東京都23区と大阪市、横浜市の総人口を足したのよりやや多い1,600万人が戦死した第一次世界大戦が起こったように、恋、炉心溶触、そして全面戦争はいずれもちょっとしたきっかけから一気に連鎖反応が起こり事象が指数関数的に増大、気がついたら手遅れになっている、という摩訶不思議な性質をもっているものなのであります........

そのような歴史、若しくは経験値から我々人間が何かを学べるのだとしたら、人間とはたとえ理性を極限まで鍛錬したところで本質的にはいつまで経っても「動物」であるという事だと思うのです。

(人間も含めた)脊椎動物及び節足動物は縄張り意識が本能として備わっています。

人間という動物はこの本能を未完成の理性で半ば強引に正当化しようとする結果、自分達には手に負えない、本当は誰も望んでいなかった結末を引き起こしてしまうのではないでしょうか?

禅問答ではないですが、自分達はそもそも自分達の事を全く理解していないという毅然たる事実をまず理解し受け入れる事が人類全体がもう一次元上にステップ・アップする為の第一歩のような気がする今日このごろ......

そんな流れで後編は昨今ホットな話題を提供してくれている竹島/独島、尖閣諸島/魚釣島について暴論を述べさせて頂きます......

2012年9月14日金曜日

人類最後の日?

今回は日本が輩出した二大天才アニメーターによる最終戦争後に再構築された「理想郷」の解釈を通じて日本人の世代による「理想」の差、或は「理想」そのものの有無に関する仮説を展開してみたいと思います!

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宮崎駿監督の「未来少年コナン」では2008年に最終戦争が勃発し、核兵器を遥かに上回る「超磁力兵器」で人類はほぼ滅亡してしまいます。

超磁力兵器 - 地軸がねじ曲がり、地核が破壊され、大陸がことごとく海に沈んでしまう

対して庵野秀明監督の「新世紀ヱヴァンゲリヲン」では2000年9月13日にやはり核兵器を凌ぐ「セカンドインパクト」で人類が滅亡の危機に瀕します。


セカンドインパクト - 秘密結社ゼーレが偽装した隕石衝突

これがこの宮崎駿と庵野秀明という日本アニメ界が生んだ天才二人によるSF2作品の現代文明崩壊のシナリオなのですが、両者に共通しているのはいずれも核兵器を凌ぐ新兵器によって地球自体の地軸や地殻が壊されて地表の様子が完全に変わってしまうという点です。

しかしそれ以上に興味深いのは共通していない点、つまり最終戦争後の世界の解釈の差とでも申しましょうか....



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宮崎駿のコナンでは二つの対立する勢力 - 「ハイハーバー」と「インダストリア」- という国家/コミュニティーが出来ています。インダストリアは文字通り工業的で既に階級制度が徹底しており重苦しい空気に満ちた場所。そしてハイハーバーは産業革命以前のヨーロッパの田舎のような場所で、ここが物語の中では理想郷的な位置付けとなっています。


ヨーロピアンな雰囲気漂うハイハーバー

庵野秀明のエヴァでは「使途」と呼ばれる敵の攻撃に晒される、街並は90年代の東京そのものの第三新東京市という場所が物語の舞台となっています。そこには70'sビンテージ・カーのアルピーヌ・ルノーA310が走ってるかと思えば、ローソンが普通にあり、中学生は学校の帰りにガリガリ君を食べ、大人はエビスビールを飲んだりしているのです。


通勤ラッシュの第三新東京市

多くの人が密かにこの世界を一度リセットして桃源郷というかアルカディアというか、所謂「地上の楽園」みたいなものを再構築してみたい、という夢を持っていたりするのではないでしょうか?

この2作品に登場する「ハイハーバー」と「第三新東京市」はある意味この2監督のそんな「ノアの箱船コンプレックス」を具現化したイメージだと思うのです(「未来少年コナン」は原作本がありますが、宮崎駿が原型をとどめない程自己流にアレンジしてしまっているのでイメージはほぼオリジナルと言って差し支えないかと......)。



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太平洋戦争開戦の年、1941年(昭和16年)に生まれた宮崎駿。

全共闘世代」 - 戦争の生々しい爪痕を目の当たりにしながら成長し、墨塗り教科書を手に取った戦後教育の申し子である事も相まって反戦思想が強い人達です。エンターテインメントといえば映画が中心、しかも日本では考えられない程の凄いセットで撮影されるアメリカ映画やおしゃれなフランス映画、そしてディズニーに代表されるテクニカラーのフルアニメーションなどを観て育っている為に海外への憧れも非常に強い世代であったといえるでしょう。そして日本の公害問題がピークの頃を若い頃に実体験しているだけに自然回帰、エコへの思い入れも強いのではないでしょうか。

そんな世代の宮崎監督にとって最終戦争を経てリセットした地球の理想像というのはエコで牧歌的、かつヨーロッパ的メルヘン溢れる世界 - ハイハーバー - そこには原点回帰を通じて本来の人間性を取り戻したいという監督の祈りのようなものが見え隠れしているような気がするのです。


ハイハーバー

それから約20年後、高度経済成長期の岩戸景気まっただ中の1960年(昭和35年)に生まれた庵野秀明。

物心ついた時からテレビも冷蔵庫もあり、衣食住に困る事も殆ど無くなった時代。ほぼ同世代のみうらじゅん(1958年/昭和33年生)が「不幸のない不幸」と呼んだほど、極度の貧困は勿論、戦争や大きな自然災害なども経験しなかった世代です。日本の子供向けエンターテインメントも充実し始め、国産アニメやウルトラマンといった実写ヒーローもの等を観て育った為に前の世代ほど海外への憧れは無くなってきています。学生運動も下火になり「しらけ世代」と呼ばれ、団塊の世代の様に現実の社会を変えるより、社会そのものをある種のフィクションとしてとらえる、斜めの見方をし始めた人達です。

そんな世代の庵野監督にとって最終戦争を経てリセットした地球の理想像というのはデジャヴ的現代社会 - 第三新東京市 - 「理想」というものの無責任さと潜在的危険性を見透かしてしまった者が一周まわってたどり着いた境地がこのパラレル・ワールドだったのではないでしょうか......


第三新東京市

勿論これは単に二人の世代の差だけではなく外向的な宮崎駿と内向的な庵野秀明との性格の違いも反映されているとは思いますが、いずれにしても育ってきた環境や社会的背景も全く無関係ではないか、と.........



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何はともあれ!2012年の今も地軸がひん曲がるような最終戦争が勃発していないのはとりあえず有り難い事ですねぇ〜!

2012年9月11日火曜日

爆笑文化比較論(8)最終回 - 僕達の本当の名前は?

未だに不明な要素だらけの人間の脳内回路で「笑い」という摩訶不思議かつ非常に高度な機能のスイッチがオンになる過程の構造を分析し、東洋/西洋文化比較論へと発展させる、というのが今回の連載ブログの趣旨だったですが、とどのつまり笑いの質に上も下もありません。だからユーモアのセンスの優位性や洗練度なんて突き詰めて考えればナンセンスです。要するに:


ウケたらそれで良し!


ただ「それを言っちゃあおしめえよ!」って事もありますので(笑)

流石にこの流れで皆さん既に良くご存知の日本のお笑い番組を紹介してもあまり意味ないんで、皆様の素晴らしい脳に負荷をかける意味でも(笑)日本ではまだ紹介されていないイギリスのコメディで最近観て本当に心から腹を抱えて笑ったのみならず素晴らしくかつ本当の意味で誠実だと思った作品を最後に.....

ご紹介するのはイギリスで毎年チャリティ団体が行っているComic Reliefという番組の中で2007年にリッキー・ジャーヴェイスという人が脚本・主演したコーナーです。

不肖私めが字幕タイトルを付けさせて頂きました.......

Watch Example in 信仰・ライフスタイル  |  View More Free Videos Online at Veoh.com
One Love / Ricky Gervais







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何も考えないで観てしまうとどこまで本気なのか判らないどす黒過ぎるユーモア............

これはリッキー・ジャーヴェイスという人の得意のパターンで「エキストラ:スターに近づけ!」でも実生活でも落ち目のキャリアの俳優に実名で落ち目の俳優役をやらせたりとかして居心地の悪い笑いをとっています。

みのもんたが納豆を奨めたらすぐに「テレビで〜って言っていたから....」といって納豆を買いに行く、あるいは「テレビで安全だと言っていたから」セシウム検出食材を買ったりするような所謂「メディアの良心」を信じて疑わない方々がこのような作品を観たら恐らく嫌悪感すら覚えるでしょう - 帰依している対象の矛盾を指摘された信者の誰もがそうするように。

考える事や選択をする事に疲れてしまった人々が「テレビ」とか「メディア」を信じている、というかもっと正確に言えば「信じたい」という事実は日本もイギリスも大して変わりはないでしょう。

この作品の方に話を戻しますと番組自体が本物のチャリティーである、という状況を最大限利用してメディアや有名人によるチャリティーの本質的偽善、更に言えば我々全員の心の中を巣食う偽善を徹底的に晒す「聖域なき笑い」 - この道徳観の奥深くに突き刺さる笑いを通じてメディアの嘘や偽善を見抜く自律的判断力を受け手に与え、今日信者数世界最大の信仰「メディア教」への強烈な警鐘を鳴らしていると言えるでしょう。

「これこそ英国風ユーモアだっ!」と言い切るのは、ミスター・ビーンだって「英国風ユーモア」だという事を考えるとちょっと違う様な気はしますが「自分自身をネタに笑える」事を至上の美徳とする英国の国民性は多少反映されているかと......


***


こういった自己批評的な笑いが育んだ精神土壌だからこそイギリス人の思考プロセスには「弁証法」が根付き、ひいては「議会制民主主義」、「近代司法制度」、「産業革命」、「社会保障」といった所謂近代国家にはデフォルトでついてくるアプリみたいなしくみが造り出されてきたのではないでしょうか?

対して誰でも共有出来る予定調和的な笑いが育んだ精神土壌の日本では治安がよく清潔で何の規制もしなくても自然に先進国の中で平社員とエグゼクティヴの給与差が最も少ない社会が育まれてきたのではないか、と.............


***


この世の事象は全てコインの裏表、つまり長所を長所たるものにしている事が短所にも直結する訳です。ですから文明や文化、言語はてまたは笑いの優劣を語るのは基本ナンセンス。大事なのは満足して努力する事を辞めずに常に前進し続ける事。


***


今から15年程前ロンドンで人間のオーラや守護霊が見える女性とお話しさせていただいた際、このようなアドバイスを頂きました:

"Change what you can"
(自分で変えられる部分は変えて行きなさい)

ここにおける「変えられない部分」というのは「自分を自分たらしめている」本来失ってはいけないものではないか、と僕は解釈しました。

これは個人の人生のみならず、言語や文化にも当てはまるのではないかと思います。


***


先日友人の子供が家に遊びに来ていたので一緒に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を久しぶりに観ました。

毎回観るたびに色々な発見がある映画なのですが、今回改めて印象に残ったのは「湯婆婆」に「千尋」という名前を奪われ「千」と呼ばれるようになった千尋がハクに逢った際本当の名前を一瞬思い出せなくなった時、ハクが言ったこの言葉:



自分の本当の名前はとても大事なんだ
湯婆婆は人から名前を奪ってその人を支配するんだよ




この言葉を噛み締めながら皇紀2672年の日本を見渡してみると本当に色々な事に気付かされます。

..........僕達の本当の名前とは何なのでしょう?


***


そんな訳でこの長いブログ・シリーズも今回で終わりです。最後迄読んで頂いて誠にありがとうございました。

もしお時間がありましたら感想や御意見、クレーム等を書き込んで頂けると嬉しいです!

2012年9月10日月曜日

爆笑文化比較論(7)「笑われる」お笑い芸人「笑わせる」Comedian


日本で面白い人への褒め言葉として「おバカ」というのがあります。日本には「おバカ」でないお笑い芸人なんぞ皆無でしょう。

この「おバカ」を最もニュアンスが近い英語に置き換えると「CRAZY」になるでしょうか。

Eels Song(ウナギの唄)from "Mighty Boosh"

この「CRAZY」という言葉を日本語でそのまま「気違い」と訳してしまうととても褒め言葉にはなりませんし、日本の公共電波では放送禁止用語ですらあります。英語社会において"He's crazy!"というのは良い意味でも(時として悪い意味でも)常軌を逸しているとか、日本語でいう「あいつチョーおバカでさぁ〜!」の近似値だったりするのです。

同じく日本の単語「バカ」をそのまま英語で"stupid, fool"といった言葉に置き換えると、やはり日本語における「気違い」と同様決して褒め言葉にはなり得ません。

これは「知性の低い人」或は「バカだけどいい奴」に対して西洋社会は日本社会ほど寛容ではないという傾向とも密接な関わりがあると思います。

例えば「男はつらいよ」の寅さんや、往年の東映任侠映画、オールド・スクールなスポ根系マンガの男主人公なんかが口論する際によく:

「てめぇ、さしずめインテリだな!」

「俺ゃ〜難しい事は判んねえが....!」

みたいな啖呵を切ったりします。こういった啖呵は日本においては「潔い」男らしさの象徴とみなされ、こういうシーンではカタルシスすら覚えますよね。

ところが英国ではこのように最初から議論する事を放棄したりするのは口論の敗北を意味します。ましてや自分の知的劣等性を認めるような言動は殆ど見られません。

そのせいか英語社会においては「理屈っぽい」という属性が日本ほどネガティヴにはとられないのです。

.......とは言っても結局英語社会においても政治やアートに関する口論とかでも結局"Your gay!"(テメ〜はオカマだ!みたいな。しかも炎上するコメ欄とかだと"You're"と"Your"(英語だと発音は同じ)が混濁しはじめる)みたいなレベルに堕ちてしまう事が多いので、とてもいずれかの知的優位性なんて感じられない時も多々ありますけどネ(笑)

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「おバカ」と「CRAZY」- この二つの単語のニュアンスの差にも両者の笑いの質や文化の差が見え隠れしています。

日本で「おバカ」を演じて笑いを誘うのは受け手に「世の中ここまでバカがいるんだな」という安心感も同時に与えてくれたりします。だからそういった事を敢えてやるサービス精神、或は自己犠牲精神が旺盛な方々に日本人は愛情を込めて「こいつバカだよな〜!」と言うのでしょう。


一方日本では自己犠牲と自己顕示欲とのブレンドで周りを引き立てていると位置づけられる「バカ」も所変わって西洋ではよほどちゃんとしたヒネリがないと冷たくあしらわれたり、時には嫌悪感さえ抱かれてしまいます。

いくら「ボケ」てもそこにあくまでも知性と批評精神がないとリスペクトを込めて「S/he's crazy!」とは言われない、つまり「言いたい事がある」100%確信犯である必要があるのです。

ゴルゴダの丘で磔になっている死刑囚が'Always look on the brighter side of life(人生の明るいところを見つめて生きて行こう!)'と合唱
Monty Python's Life of Brianより)
"Cheer up, man!"
「元気出しなよ!」
"You know what they say..."
「よく言うだろう....」

Some things in life are bad
人生は時として酷い
they can really make you mad
そりゃぁムカつく時だってある
Other things just make you swear and curse
時には悪態ついて呪ったりするさ
When you're chewing on life's gristle, don't grumble give a whistle
でもどん底の時こそ文句を言わず口笛吹こうよ
This will help things turn out for the best
そうすれば良い事があるかもしれないぜ
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
Always look on the right side of life
人生のいいとことやらをを見つめて生きようじゃないか
If life seems jolly rotten, there's something you've forgotten
人生なんて下らないって思う時、何かを忘れてはいないか
And that's to laugh and smile and dance and sing
それは笑いと微笑みと踊りと詩
When you're feeling in the dumps, don't be silly, chums
落ち込んでいる時だって自暴自棄になってはダメさ
Just purse your lips and whistle, that's the thing
黙って口笛を吹く、それでいい
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか
For life is quite absurd, and death's the final word
人生はこんなに不条理なのに最後は必ず死で終わる
You must always face the curtain with a bow
カーテンコールではお辞儀をしなきゃいけない
Forget about your sin, give the audience a grin
一生で犯した罪なんて忘れて観客に微笑むんだ
Enjoy it, it's your last chance anyhow...
この世で最後のチャンスなんだから楽しむしかないだろう...
So, always look on the bright side of death
だから、死の明るいところを見つめてみよう
Just before you draw your terminal breath
息を引き取る寸前まで
Life's a piece of shit and when you look at it
人生なんてクソさ、考えてみなよ
Life's a laugh and death's the joke, it's true
人生なんてお笑い、そして死はジョーク、本当だぜ
You see, it's all a show, keep them laughing as you go
いいかい、人生は舞台なんだから客を笑わせ続けるんだ
Just remember the last laugh is on you
最後に笑うのは自分だって事さえ憶えてりゃいいんだ
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか
Always look on the bright side of life
人生の明るいところを見つめて生きていこう
And always look on the right side of life
人生のいいとことやらを見つめて生きようじゃないか

(訳:西川 顕)

このモンティ・パイソンのような笑いが好きな日本人も多々いる反面、特にこの手のネタを同胞日本人自身がやると「凝り過ぎ」て笑いがとれない事も多々あります。

イギリス人がやると面白がるのに日本人が全く同じ事をやると白い目で見られる、という傾向も、あくまでも自分達は世界のどの民族とも違う日本人の事を本当に理解出来るのは日本人だけ、と信じ込み、「外人」ではない「身内」が予定調和を乱す発言や行動をする事に本能的に不快感を覚える国民性から来ているのではないかと思います。

そのようにお互いの共通項を尊ぶ日本人はもっと感覚的で直接的かつ誰でも判る肌で感じる笑いを好むという傾向があります。ちょっと意地悪な言い方をすれば「世間には自分よりバカがいるんだな」と思わせてくれる笑いがお好きなようですね。

かつて世界史上最大の帝国を築き、今では悪名高き植民地経営もあくまでも「優生学上、人類で最も進化しているアングロ・サクソン人が遅れている非文明人の方々を教育し、産業革命にはじまる輝かしい英国近代文明の恩恵を享受させてあげたい」という、或る意味一神教の布教精神にも通ずる高い志(?)で行われた事。

ナチス・ドイツの功罪/功績でおおっぴらに優生学を引き合いに出すイギリス人は昨今流石にあまりいませんが、世界の人種を「教育する側」と「教育される側」に分けるとしたら自分達はあくまでも前者だという意識は英国民をはじめ西洋の皆さん多いにあると思います。

インテリ至上主義的で競争を好む(特に北ヨーロッパ系の)西洋人は笑いという本来は感覚的な行為の中にも批評性を持たせたい、右脳にも訴えかける笑いを好む傾向があります。こちらもちょっと意地悪な言い方をすれば「このネタで笑える自分は頭が良い」と思わせてくれる笑いがお好きなようですね。

総括すれば日本のお笑い芸人は「笑われる」のが仕事、イギリスのコメディアンは「笑わせる」のが仕事なのではないか、と......

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ここまでの間、なが〜い僕の駄文を読み続けて下さった方、誠にありがとうございました!そんな訳で次回は長かったこのシリーズのいよいよ最終回です!