2013年7月6日土曜日

日本語にしか宿らない?「言霊」

いきなりですが僕は表面的なイメージとは裏腹に実はイギリスを筆頭に西洋は男性が支えている父性社会、日本は実は女性が支えている母性社会だと考えております。

日本人の男性は意識的に、或は無意識的に女性より偉そうに振る舞っていますが、実体はお釈迦様に対して「俺は世界の端から端まで行けるぞ!」といきがって觔斗雲に乗って飛んでみせたら実はそれはお釈迦様の手のひらの端から端までだった、という孫悟空みたいなもので、そのお釈迦様こそが女性なのです。

ま、要するにこんなイメーヂですね
先日とある女性の友人が「日本の歴史や文化を反影した言葉であり、今となってはそう深く意味を考える必要も無いのだろう」としながらも「主人、旦那、亭主」という言葉は使う度にどうも気になってしまう、と仰っていました。

確かに上記した理由だけではないですが「主人、旦那、亭主」という言葉は咀嚼すればするほど余りにも滑稽かつ歪な味で僕も生活の中ではガチにはとても使えないです

英語社会においてもかつては女性を "Mrs. John Smith" みたいにして呼び、文字通り男性の所有物的な扱いをしていました。しかしこのような表現はアチラにおいては時代に、というより意識的に淘汰されて逝きました......

言葉そのものの持つ意味をきちんと見つめ、自らの強靭な自由意志で言語デザインに手を加えるという事に関しては日本人は西洋なんかに比べて非常に保守的ですね。日本人にとって日本語というのはある意味「聖域」なのでしょうか。

この「聖域」を神道的に解釈をするならば倭言葉には「言霊」というものが存在し、八百万神が存在する自然と同じく人間が意図的に手を加えてたら「バチがあたる」という感覚......

神霊が鎮まる神域かむやしろ
一方、最近「外国語が多過ぎて精神的苦痛を与えられた」としてNHKを提訴した男性のニュースがありましたが、「片親」を「シングルマザー」とか、「乞食」を「ホームレス」とか、「憎悪発言」を「ヘイトスピーチ」みたいに言いかえる感覚で「夫、妻」を「ハズバンド、ワイフ」と英語に置き換えたりするソリューション(笑)も問題の本質を他人事のような手触りにして曖昧にしてしまうだけ、という気がしてなりません。

喋っている人間のIQに下駄を履かせ、エセインテリゲンチャっぽく演出する為の道具としてだけの外来語だったら、せいぜい成金が持っている似合ってもいないブランド物程度のレベルの話なので可愛くもあり大した害はないと思うのですが、言葉というものは我々の思考に直結しており、時には意識まで鎮静させてしまう毒性が潜んでいるから気をつけるべきなのです。

このような愚行(と、敢えて言わせて頂きます。僕的にはこの手の行為は単なる政治的手段を越えた愛する日本語のレイプに他ならないのです)をし続ける事で核心の部分は寧ろ全く触れられずに済む為、本質的な改善や進歩はさらに遠のくように思うのです。

問題を上手に挿げ替えたら問題が問題でなくなっちゃうかも!?みたいな......

そういう意味ではくだんの男性もあながち単なるクレーマーではないんじゃないかと思いますね〜

もしかしたらやたらと臭い場所には英語を使いたがるこの日本人の習性も「英語には日本語のような言霊が存在しないからカジュアルに利用出来る」という外来語に対する無責任な「気軽さ」がどこかにあるからかもしれません。

それは裏返してみると「『言霊』は倭言葉にしか宿っていない」という感覚が意識下のどこかにあるという事です。

***

日本語というのは日本にしか適用されない言葉が幾つか存在する、という意味でも特殊な言語です。

例えば英語で天皇にあたる "emperor"という言葉は日本の「天皇」以外は「皇帝」と訳され、"prime minister"は日本の「総理大臣」以外は「首相」と訳されていますよね。

対してイギリスの"queen"という言葉は英国女王以外にも使われますし、"prime minister"という言葉も然り。アメリカの"president"も当然同じです。

「天皇」や「総理大臣」は日本にしかいないのです!

こう書くと「当たり前だろ」とか「そりゃそうだろ」と即座に反応される方も多いでしょう。

その脳の反射神経の感覚こそが英語で言う"exceptionalism" - 例外主義なのです。

それが非日本人の目にはどれだけ不思議かつ滑稽に映っているかを肌で感じられないのは我々日本人が自分達、そして自分達の使っている日本語そのものが当然「例外」であると心のどこかで信じ込んでしまっているのです。

「総理大臣」は世界広しといえども日本にしか生息しておりません

そもそも英語には「言霊」にあたる単語はありません。英語に限らず西洋の言葉に対する感覚はもっと即物的というか、あくまでも詩的/美的/音楽的なもの、或はよりインパクトの強い言葉のコンビネーションや利用法というベクトルに特化したものです。

それはあくまでも神は一つ、そして地上ではなく天上にあり、下界の言葉は単なるコミュニケーションのツール道具、或は美しい詩や文章を描く為に必要な絵の具のようなものと捉えられている故でしょう。

西洋では詩人らによって言葉が「詩」という域まで昇華し、生命が吹き込まれて初めてそこに霊性が降臨するという風に考えられていますが、日本においては文脈すら形成される以前の単語、下手したらその音節にすら「言霊」という霊性が宿ると信じられている訳です。

それが故に西洋の詩は(少なくとも19世紀位迄は)装飾的な方向に進化し、日本の詩は俳句のようなミニマリズムの方向に進化したのかもしれません。

言葉の錬金術師ランボオ

先日仕事の取材で本田のASIMO最新型を開発した技術者の方とお話ししましたが、その方も「ロボットが進化して機能がどんどん充実してくると八百万神を信仰する日本人であるせいかどうしても『何か霊が宿りはじめているのでは』と感じ始めてしまう」と語っておりました。

日本特有の保守性というのは言葉に限らず霊が宿る万物への畏怖というか不可侵性みたいな感覚の顕在化したものではないかと感じるのです。

そう言った意味では例えば現行の日本国憲法なんかも既に神さんが宿ってしまい神性を帯びはじめてしまっているから「改正なんてとんでもない!」と政治家も有権者もどこかで思い込んでしまっているからなのかもしれませんね〜♪








2013年4月5日金曜日

Sleepless in Toronto / トロントの寝付けない夜

This entry is written in English and Japanese
今回のブログは二カ国語でお送りします


I was in Toronto, Canada last week attending and speaking at Canadian Music Week. I always find a hard time adjusting to the time difference and, this time being no exception, had quite a few sleepless nights...

先日Canadian Music Weekというイベントのパネル・ディスカッションに参加すべくカナダはトロントに行ってまいりましたが、時差に弱い体質故、今回も案の定寝付けない夜が続きました...

So, one night I thought; "Since my brain refuses to slow down, I might as well write down the crazy thoughts that are keeping it active against, or perhaps being emancipated from, its owner's will."

ある晩ふと「脳が全然休もうとしないのなら、その中で持ち主の意志に逆らって、あるいは解き放たれて駆け巡っている思考を書き留めてみようか」と思ったのです。

The followings are "the thoughts" or "psychography", if you like...

以下がその「思考」又は「自動書記文」です...

(原文は英語なので一部英語的言い回しがありますがご容赦下さい)


"Brain Children" - Ken Nishikawa, 1997

Some people ask me “why are you so interested in linguistics and cultural comparison?” Here is the reason;

よく人から「何故そこまで言語学や文化比較に興味があるのですか?」と訊かれます。以下がその理由です;

My ultimate goal in life is to isolate my soul from all influences I’ve had since my birth.

自分の人生における究極の目的は生まれてこのかた蓄えて来たあらゆる影響から自分の魂そのものを摘出する事です。

To know who I really am, I must understand the elements of additives acquired through up-bringing, education, culture and socializing, remove them and see myself for what I truly am.

自分自身を知る為にこれまで家庭環境、教育、文化、社交等を通じて得られた添加物を理解し、取り除いて本来の自分の姿を見る事が必要なのです。

In order to do so, one must become a bicultural or multi-cultural person. A mono-cultural person cannot draw a line between what is being added by cultural initialization/conditioning and what is a pure consciousness one was born with for s/he is unable to grasp the part - her/his own culture (when I say “culture”, I include language, general temperaments, religion, -isms, politics, the lot) – in its entirety and purity.

その為には二つ、もしくはそれ以上の文化を自分の中に持ちあわせる人間になる事が必要です。一つの文化しか持ち合わせない人間は文化的初期化/条件化によって形成された部分と生まれた際に持ち合わせた純粋な意識の部分の間に線を引く事が出来ません。何故なら自分自身の文化(ここで云う“文化”には言語、国民性、宗教、思想、政治等全て含まれます)を総括的かつ純粋に理解する事が不可能だからです。

If your country and her culture is the only country and culture you know, you will never be able to put them into perspective. You need to travel abroad, live with different people and speak other language(s) in order to truly understand your country and culture. If you are unable to see your own culture in objective, three-dimensional manner, you will never be able to separate it from your pure consciousness or soul, if you like.

自分の国と文化しか知らない人はそれをパースの中に置いて捉える事が出来ません。自分自身の国と文化を本当に理解する為には外国に行き、違った人種の人達と共に生活し、異なる言語を喋る事が非常に重要なのです。自分の文化を客観的かつ三次元的に捉えられなければ、自分の純粋な意識、或は魂からその部分を分割する事は永遠に不可能です。

Some says they are inseparable. I disagree.

文化と魂は不可分だ、という人もいます。僕はそうは思いません。

It is a scientific approach to zen nirvana.

これは禅で云う涅槃に至る為の科学的アプローチ。

Asking questions such as “why do you need to know such a thing?” or “You find yourself, then what?” is like asking a quantum physicist “what is the point of discovering the origin of the universe?”

「何故そんな事を知りたいの?」とか「自分自身を知ってどうするの?」等と問うのは量子力学者に「宇宙の誕生を知ってどうするの?」と問いかけるようなものです。

Answer is not important. Question is.

重要なのは答ではなく問答そのものなのです。

The ultimate truth is not the eternal answer. It is the eternal question.

究極の真実とは永遠の答ではなく永遠の問答。

“Reality” is about the answer. “Truth” is about the question.

「現実」とは答であり「真実」とは問答。

Riddle is the fountain of life-force.

問答は生命力の泉なり。

Finally, I’d like to add that this is one of many paths, not the only one, that lead one to the palace of wisdom.

最後にこれは英知の館へと通じる数多い道の一つでしかないという事を付け加えておきます。






2013年3月7日木曜日

俺は死にたくないよぉ〜!

唐突ですが、最近僕が惚れてる男二人といえば松田優作会田誠なんです(笑)

(会田先生は3月31日迄六本木ヒルズの森ミュージアムでデッカい展覧会やってまっせ♪周りの人には「ムリ〜」って人もいるのですが、個人的には資産と展示スペースがあったら全作品買いたいくらい惚れてます!)

「ど、どっからその訳解らないコンビネーションが出てくるんだよっ!(汗)」

......そんな声が聞こえて来そうですが、そのような狼狽を顧みず今回は好きなだけ.....

「男が男を愛する時」- 偏愛について吠えさせて頂きます〜♪

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僕の中での松田優作の原風景は小学校の時「太陽にほえろ!」の再放送で観た「なんじゃこりぁ〜〜〜っ!」でお馴染みのジーパン刑事....

あと優作との個人的な関わりで言いますと、今から10年以上前の話になりますが「探偵物語 Remix~これにて一件落着~」というコンピレーションがリリースされた際に渋谷のWOMBで行われたパーティーにてDJをした位でした。何故僕が指名されたのかも今となっては永遠の謎ですが、この時はまだ「探偵物語」をよく知らなくて、工藤ちゃんのコスプレをした人を見ても「なんかルパンみたいな人が歩いてる」なんて思った程度....

そんな僕ですが、ここ数週間で自分の中の「優作」因子が超臨界状態に達してしまったのは遅ればせながら最近Huluで観始めたくだんの「探偵物語」....

「探偵物語」それは時代を先取りした者達への奔放なメッセージである....

1960年代、日本映画のヒーローといえば高倉健に代表される任侠ものの「ヤクザ」。しかし70年代に入ると「反社会的勢力を美化するのはいかがなものか」という"いかにも"な流れでテレビでは逆に体制讃歌的な刑事ドラマが氾濫。実際視聴率もとれていたので結果:

「警察権力は庶民の味方」

という誤った認識が一般社会に定着して今に至る、って感じだと思うのです。

松田優作にしても前述の「太陽にほえろ!」や「大都会 PART II」なんかで刑事役を演じ、そのステレオタイプの定着に図らずして片棒を担いでしまった感もなきにしもあらずですが、僕に言わせればそんな負の遺産(?)を返済してあまりある程、70年代テレビ番組の偏ったヒーロー像を本来のあるべき姿に戻した(?)のが工藤探偵事務所の私立探偵、工藤俊作!

「あのねぇ〜」

「探偵物語」の本放送は1979年から80年。現代より良くも悪くも製作姿勢がユルかったのでしょうか、同時期のドラマの例に漏れず回によって脚本や演出の完成度がまちまちではあります。正直、全27話の中で個人的に「素晴らしい!」と手放しで褒められる回は恐らく片手で数えても指が余る程度でございます......

しかし!そんな整合性に欠けたショボい脚本の回でさえも優作のアドリブの効いたノリのいい演技、手足の長い人には珍しい軽快な身のこなし、そして何よりもピッカピカのカリスマのお陰で何となく観れてしまうのが怖いです(笑)。

個人的に特にお勧めなのは水谷豊原田美枝子がゲスト出演している第5話「夜汽車で来たあいつ」。

若き日の松田優作と水谷豊の二人が写っているカット、特に酒場をさんざん梯子してどこかのクラブのステージで優作がギターを引きながら水谷豊が唱うシーンなんかはホント、眩いばかりの絵図です。

白いギターにシビレますね〜

この二人本当に上手、というかカンの鋭い役者さんなので台詞のテンポがよくて自然。会話のシーンなんてまるで終わってしまうのが勿体ないような良いミュージシャンのジャム・セッションを聴いているような感じで、いつまでも聞いていたい魅力が満載ですねぇ。この回における二人のパフォーマンスの素晴らしさたるや..........

........個人的にはダニエル・クレイグ主演の最新版ではなく1967年制作のオールスター・キャストの方の「007カジノロワイヤル」(この映画自体は「世紀の駄作」という評価と「微妙なお洒落映画」という評価に分かれておりますが...)でピーター・セラーズオーソン・ウェルズという英米天才俳優二人が演じたバカラのシーンに匹敵するものだと思います♪

"Bond, James Bond..."

またこの回は優作演じる工藤ちゃんが田舎から出て来るカタブツの水谷豊をトルコ風呂(今で言うソープランド)に連れて行って、馴染みのボイン(死語)のトルコ嬢(死語)に「たっぷりサービスしてあげて!」なんて言う描写があるのですが、そういった演出にも生々しい現実を慈愛の目で見る実に味わい深いものがあるのです。

ちょっとネタバレになりますが、水谷豊の妹を演じる原田美枝子(この人も本当に美しく、素晴らしいです!)が調査を進めていく内に実は売春をしてお金を稼いでいる事が発覚するのですが、工藤ちゃんはそれを全然咎めません。むしろ兄の豊の方に「お前の妹は田舎でモンシロチョウを追っかけていた妹とはもう違うんだ!」

「俺は職業差別はしない!」

別の回では女装してクラブで働くお友だちを探偵料一切取らずに助け、この人達を虐めて酷い事をする人達に鉄拳制裁を加えたり...

或は仲の良い情報屋がポン引きだったり...

要するに社会の一見奇麗な上澄のような部分に棲む人達が後指をさすような人々の味方、というかそういう人達こそをむしろ彼は彼なりに愛しているのでしょう。そして自由をこよなく愛するが故、警察権力をはじめ権力のようなものは基本的にバカにしているんですね〜。これぞ本当のヒーローの姿でしょう!

権力にたてつかないヒーローなんて絶対嘘!

そんな高貴な魂をルパン三世のような派手なスーツで包み、バイクがノーヘルOKだった古き良きプリ・バブル期東京をベスパで颯爽と走る姿....

っていうか「探偵さん」モテモテでしたね。ま、そりゃそうでしょう!

男でも濡れますわ(笑)

「探偵物語」の魅力を挙げていくときりがないのですが、もう一点だけ言うと先程のベスパや銀座英國屋仕立てのスーツに始まり、工藤探偵事務所のカッコいい建物火力最大のライター工藤ちゃんハットティオペペ等、アクセサリーやディテールにいちいち拘っているところ。「探偵物語」の撮影現場は実質松田優作が仕切っていたそうですが、CM出演時でさえ、そこの出て来るキャラクターの親の設定まで徹底的に詰めていたという逸話があるだけあってこの辺の拘りも多分に彼に負う所が多いのではないでしょうか........

(あ、これはあくまでも「僕は」なので全然反対して下さって結構なんですが....)映画やテレビドラマ、そして小説においても凝ったストーリーや上手に作られたプロットなんかも良いんですが、何よりも自分が本当に心を動かされるのは「キャラクター」なのです!

そういう意味では松田優作が拘り抜いて造型した「工藤ちゃん」というキャラクターは100点満点で101点です、僕的には。

工藤ちゃんフィギュア(笑)

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そんな名作の誉れ高き「探偵物語」から10年もしないうちにご存知の通り、人間・松田優作は冥土へと旅立たれます。

ガン治療を忍、ハリウッド映画「ブラックレイン」に文字通り命を賭けて出演、故竹中労氏が「俳優として戦死。立派な死に方だと思います」と言わしめた程(かくいう竹中労氏もこの時点で既に末期ガンに冒されておりました)壮絶な最後を遂げました。

死の二日前に見舞いにきた原田芳雄の前で泣きながら点滴を引きちぎった、というエピソードは有名ですが、そこにはジーパン刑事の最後の台詞「俺は死にたくないよぉ〜!」が妙にオーバーラップするんです....

殉職シーンは全て松田優作本人が台本を無視してアドリブで演じたとか...

臨済宗の名僧/怪僧、一休宗純は生き仏として一般大衆から天皇にまで崇められ、88歳で大往生を遂げたのですが、そんな悟りを開いている一休さんでさえ最後は「死にとうない」とこぼしていたとか....

リアル一休さん

自殺願望がある人ですら死は怖い筈。単に明日という日が繰り返される事の恐怖が死への恐怖を上回っているというだけの話だと思うのです。

つまり「死にたくない!」という願いはごく自然な事。

そんな死への恐怖感というものを紐解いてみますと、動物の生存本能が臨終の瞬間そのものを恐れさせているという他に、知的生命体であるが故の副産物でもある自分という「意識(= エゴ)」が宇宙から消滅する事を「想像」してしまう恐怖、そしてその認識から帰結するのが:

「容認し難い存在の虚無」

松田優作も晩年は禅に傾倒、座禅を組み「俳優は悟りに至る迄の過程」だと語っていたそうです。

優作のそれとは関係ないと思いますが、神や天国、或は来世を信じている方々はその辺一応すがれる何かがありますよね。

しかし死への恐怖に駆り立てられて死ぬ直前になって駆け込み需要的に何かにすがりつこうとする事を潔しとしない人間はどうして「死」、もっと正確に言えば「存在の虚無」と向き合えば良いのでしょう?

Le Mythe de Sisyphe

カミュが「シューシュポスの神話」で言っているように、神亡き世界において人間は明日への希望を糧に生きています。しかしその希望の明日というのは同時に我々を一日死へと近づけるものでもあります。

そして人間も含めた地球上のあらゆる生きとし生けるものの臨終というものは人生で最も荘厳な瞬間であると同時に大抵苦しみにのたうち回り惨たらしい苦痛を経て息が絶えるという現実の側面もあるのです。

つまり「生き甲斐」そのものが絶対的矛盾を内包しているのです。

故に人は「神」のような存在に帰依して存在の不条理の苦しみから癒されたい、と願うのかもしれません。

しかし先程も申し上げたようにそのような行為を潔しとしない場合は......

存在意義の「無益さ」「無駄さ」を認め、心の平安とともに受け入れるところから本当の「生きる」事がはじまる。

本来、正義も愛も希望もない砂漠から生まれる「反抗」「自由」「情熱」.......

神も天国もない世界で人間の存在を正当化するのはそんな純度の高いエネルギーに他ならないのではないか、というのが僕の実存主義の解釈なのですが.......


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........松田優作の分身である「探偵物語」の工藤ちゃんにはそんな「反抗」「自由」「情熱」の三拍子が揃っている、と思うのです。

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そんな訳で死に際に「俺は死にたくないよぉ〜!」って思いっきり泣き叫んでしまってもいいじゃないっすか!

それは裏返して言えば自分の人生に対する抑えきれない愛が溢れ出ているという事!

大好きだった人と別れなくてはならない時に流す涙の味とさして変わらないっすよ。

大事なのは今この無意味な空間において純度の高いエネルギーを「もってる」って事。

これさえ持ち続けられれば「立派な人」になれます、っていうか多分悟れるかも♪



2012年11月27日火曜日

音楽のバイオリズム・人生のバイオリズム

「音楽のバイオリズム」っていうのが自分の中にはあるのですが、皆様にも身に覚えとかございますでしょうか?

具体的に説明しますと、まず、とある周期で:

「日本人音楽期」「黒人音楽期」「白人音楽期」

というのがありまして、解りやすく例を挙げますと、日本人音楽期は美空ひばりみたいな演歌を聴きたくて、黒人音楽期はJBとかスライみたいなファンクを聴きたくて、白人音楽期はビートルズみたいなUKロックとかを聴きたい、みたいな感じです。

(解りやす........かったですかねぇ(汗))

更にこれまた、とある周期で:

「電子音楽期」「電気音楽期」

みたいのがあります。電子音楽期にはエイフェックス・ツインみたいなIDM系がハードローテーションで流れ、電気音楽期にはエレクトリック・マイルスとかがヘビロテ、みたいな感じですかね〜

そのまた上に:

「西洋古典音楽風リズム/旋律/和音期」
不協和音/12階調/無調音 (atonal) 期」

がありまして、西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期というのはモーツァルトとかばかり聴いているというよりむしろ東西南北問わず純然たる「黄金比のポップ」な曲に心打ち震える時期、逆に不協和音/12階調/無調音期というのは新しい階律を求めてスケールを脱線するような音楽、或はノイズ、若しくはジョン・ケイジのように音楽鑑賞そのものを再定義するような音に心打ち震える時期なのです。

そして:

「アポロン的音楽期」「ディオニソス的音楽期」

これは先日ブログでも触れましたけど、敢えて言えばアポロン的音楽期の気分はブライアン・ウィルソン、ディオニソス的音楽期はゲンズブールって感じですか.......

こういったムードのフェーズがシンクロしていない為に常に異なったコンビネーションになってその時その時の自分の音の審美感を構成しているのです。

(これはあくまでも僕は、ですが.......)

聴く立場(ラジオDJ)としても創る立場(ミュージシャン)としても、これらのムードの組み合わせが実に大きく影響しているのです。諸々の要素がお互いを影響し合うという意味では西洋占星術のBirth Chart的なものと近いような気もします。

そう考えてみるとこの音楽のバイオリズムなるものは周囲の環境から時代の流れ、はてまたは月の重力とか人間の体や気分をコントロールする色々なものに影響されているのかとも思いますが、とにかく脳内のケミストリーである事は確かだと思うんですよね.....

この「音楽の波長の組み合わせ」なるものを異なった時期に創られたオリジナル曲を幾つか例に挙げて説明してみたいと思います.....

1995年にリリースされた筆者の音楽作品集"Rennaisance Pop"アルバム・アートの一部
 (art direction: Love)

まず今から18年前の1994年にレコーディングされ、95年にリリースした不肖私め最初で最後のソロ・アルバムのラストを飾る、今でも結構気に入っているこの曲なんですが....



この頃はかなりゲンズブールに影響されていまして、タイトルもゲンズブールの名曲「La Javanaise」のもじりですし、曲も完全にシャンソンのパロディです。

当時はFostexのオープンリール8トラック・レコーダーを使っておりました。

FOSTEX R8

ある時たまたまテープの最後が2分ちょっと余っていたのですが、テープは高価でしたし勿体なかったので友人と二人でこの余りの部分で一曲軽く遊びで創ろうって言って恐らく15分位で作曲しました。最後にドラムが変なところで終わっていますが、そこは正にテープが切れたところです(笑)

......と、そんな裏話はど〜でもいいのですが、先程の「音楽期」でいうと当時の自分は:

白人音楽
電気音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声
ディオニソス的音楽

のフェーズだったのではないか、と......

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続いては2004年、元々はファッション・ショー用の音楽として書かれた曲です:



これはIDMとジャズを融合させたような感じになりましたが、意図してこうなった、というよりはたまたまあの4ビートのベースラインが出来た後、自動書記風に出来上がったって感じです。所謂教科書的和音やスケール感はほぼ無視しています。

音楽ソフトはReasonとCubase、そして同じくFostex DMT8という当時既にビンテージだったマルチトラック・デジタル・レコーダーの走りみたいなのを使いました。

FOSTEX DMT-8

この時期に僕の音的審美感を支配していたのは:

黒人音楽
電気音楽(やや電子音楽も入っている過渡期?)
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

ですかね〜。

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次の曲は今年に入ってから創った割と新しい曲です:



元々は南青山にありまするとってもお洒落な大人の隠れ家的バーでプレイするオリジナル曲というイメージで創ったシリーズの一曲です。

ベースになっているのは90年代初頭のダサいイタロ・ハウス、そこにShobaleader 1の頃のSquarepusher、というよりはむしろ初期のBasement Jaxx的な変態宇宙人ヴォイスが乗っかって途中に4小節だけ唐突Stone Roses(笑)みたいな感じです。

これはもうLogic使ってマウスとコンピュータのキーボードだけでほぼ創りました。ヴォーカル以外だと唯一の例外はリズムギター。久々にファンキーなカッティングをプレイしましたが、何しろ最近は楽器を全然いじっていないので腕が鈍っていてレコーディング後のリズムの修正(つまりインチキ)が大変でしたね(笑)Photoshopといい何かと便利な世の中になったものです.....

Apple Logic Pro 9

この曲は恐らくこんな星の巡り合わせだったのではないでしょうか:

黒人音楽
電子音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期
ディオニソス的音楽(ややアポロン的要素あり)

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最後にご紹介するのは現在製作中の青木ヶ原樹海に関するドキュメンタリー用に作曲したものです。これは文字通り先週出来ました:


ドキュメンタリーのメイン・パーソナリティーである友人のアーティスト、クリスチャン・ハグブロムを代々木公園でインタビューをした時のビデオ映像の音の一部を色々いじくっているうちにデスクトップ・ジャム・セッション(笑)みたいな感じになってあれよあれよという間に出来たものです。最初からのイメージ的なものは皆無でした。

これを創った時の脳内セッティングは:

白人音楽
電子音楽
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

だったのかなぁ、と......

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それぞれの時期に使用していた機材という一見「音楽のバイオリズム」とは関連性がないフェティッシュ・ネタ(笑)についても触れましたが、これは何故かと言うと僕は定期的に自分の道具を変えるのが好きだ、という点も強調したかったからなのです。

ものを創る方法論として、個人的に馴れ過ぎた道具を使うのは一歩間違えると創作上で行き詰まった際に手癖で解決するという危険な罠に気づかぬ内に陥りそうだと思うからです。

だったらむしろブライアン・イーノの様にOblique Strategiesみたいなのを使って"εὕρηκα!"と叫びたい.......

勿論、そんな罠に陥らずに一つの楽器の蘊奥を極めていき素晴らしい音楽を創造し続ける音楽家も多々いらっしゃるとは思いますし、それはそれで心から素晴らしいと思います。

しかし自分はそういうタイプではないんです。あまり職人的なものとは無縁、といえば聞こえは良いですが要するに不器用である、と。

音楽は勿論の事、自己表現のメディアですら一定の時期を過ぎたら変えたいと思っておりまする。

「石の上にも三年」と云います故、このようなていたらくでは一生報われる事はないのでしょうね(笑)

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「芸術家は孤独だ」とはよく言われていますが、それはたまたま身近の所謂芸術家肌の人が気分屋で孤独を好む傾向があるとかいう程度で、その真意を理解している人って意外と少ないような気がします。

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かの美空ひばりが一度MCで突然、

古賀政男先生に私は家庭を持って幸せになってはいけない、と言われました。皆様はその意味がお判りになりますか?」

とお客さんに問いかけました。

暫く間をおいてから、悲しそうに微笑んで。

「それはお判りにならないですよね、勿論.......」

と言ってから唱いはじめたのです........

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「安定」とはかくなる魂にとって不治の病のようなものなのかもしれません。





2012年11月6日火曜日

垂直にやってくる西洋の神、水平にやってくる日本の神々

最近「ビギナーズ・クラシックス - 古事記」なる本を読みました。

古事記(ふることふみ、とも詠まれる) - 現存する日本最古の歴史書

僕の読んだ古事記は漢字仮名交じり文バージョン(元々古事記は漢文のみで書かれている)と現代語訳バージョンが併記されているのですが、補足説明として色々なコラムがところどころに出てきます。その中で文字通り「禿同」だったのがこの一文:

そもそも「GOD」を「神」と訳したことから不幸が始まった。
(略)異文化の本質を見極めないと是正には途方もない時間を要することになる。
人間は意思の最終決定に論理よりも情緒を優先するからである。

******

西洋のGOD=神=世紀の大誤訳!

......というのは僕も常々考えていた事。

まず西洋のGOD、つまりキリスト教における「神」とは一体どのような存在なのでしょう?

キリスト教をはじめとする一神教の神とはまず「全知全能」 - 絶対的な宇宙の支配者、道徳の守護者で人間が逆らう事なんて許されないばかりか、文字通り畏怖すべき存在なのです。

リスボンのジェロニモス修道院

対して日本の(特に神道における)神様というのは対してどのような存在かというと.....

......気分屋で次に何をするか分かったもんじゃないし、嫉妬もするし、間違いも犯すし、人間の体を借りて酒は吞むわ、異性とは戯れるわと実に世俗的なんですね〜

新宿・花園神社の見世物小屋

天皇崇拝が始まる以前の神道の原始の姿がより色濃く残っている(と筆者が考える)アイヌ民族の間では例えば悪天候が続いたり、生活の糧である鮭があまり川に帰ってこなかったりすると民は「神が仕事を怠けている」と考えて村の長老を中心に「神(カムイ)」に文句を言いに行ったりしていました。

キリスト教をはじめ一神教において完全無欠な「神」に対してクレームをつけるなどというのは(少なくとも信心深い人達にとっては)有り得ない行為です!



そんな「GOD」&「神」 ー この二つの言葉の語源を紐解いてみると..........

「GOD」というのは古代サクソン語の "good" を意味する単語から派生したもの、という説があります。つまりGODは「正しき者」である、という事でしょう。

そこに議論の余地はなく、ひたすら崇め、恐れ、そして全知全能のGODの目において間違いを犯さずに生きる事によって復活の日に蘇らせてもらえる、という契約の主たるGODの絶対性があり、正しい者が正しく祈れば「必ず守ってくれる」存在なのです。

プラハのモルダウ川に架かるカレル橋

対して「神」という言葉には元々「自然の力」或は「不思議な力」という意味があります。全てのものに霊性が宿ると考えるアニミズム的な日本の神様とは「生命の源」とも解釈出来るでしょう。

それは所業の善悪を裁く存在とは全く関係のない、森羅万象の不思議をなんとか象徴としてでも捉えたい、と願う古代の人々の思いが込められており、誰でもお祈りをすれば「もしかしたら守ってくれるかもしれない」という存在なのです。

そんなユルさが故か、我が家の近所にある鳩森神社で夏祭りがあると協賛した方々の名前が書かれた提灯が代々木駅前に並びますが、その中には堂々と日本共産党さんの名前も連ねられております(笑)

「宗教は民衆のアヘンである」カール・マルクス


そんなゆるキャラ的な神々だらけの国、日本にカトリックの宣教師によってキリスト教の完全なる「全知全能の神」がもたらされた際、最初はどうも「神さま」というカジュアルな言葉がしっくりこないからという事で「でうす」とか「天主」とかいった別称が使われていたのです。

例えるなら「百匹の猫(神々)」対「一匹の虎(GOD)」という位似て非なるものですから当然といえば当然でしょう。

しかし結局便宜的な理由で「神」という呼称に統一されたようです.........

十六世紀に九州を中心に耶蘇教(ヤソ教、以前キリスト教は日本ではこう呼ばれており、南方熊楠などは最後迄そう呼んでおりました)が全国的に浸透していった理由の一つに宣教師が連れてきた医者が当時は不治の病だと思われていた人達の命を西洋の進んだ医学療法で次々と救って行ったという事がありました。

西洋においてこのような自然科学が進歩した理由も実はこのGOD/神のコンセプトの違いと無関係ではないと思うのです。

日本のアニミズム的な神々とは言ってみれば自然そのもの。つまり神さまにはクレームはつけてもやはり結局「世は全てよし」。神々(=自然)とは日々仲良く共存していく道を探る訳でございます。

一方西洋において自然とはあくまでも神の創造物であり、神そのものではありません。その中で神が自分の姿に似せて作ったという我々人間は神の下において頂点にあり、自然そのものも自分達の都合で改善していく事が全然アリなのです。

「改善」って日本の国民性を象徴する言葉と云われますが、決して日本人の専売特許ではないんですね。

この自然界に対する自意識の差が程よく教会の権力が衰えたある時点(つまり暗黒時代の終わり)から人々を覚醒させ、ヨーロッパにおいて急激に自然科学が進歩した原動力となったのではないでしょうか?

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もう10年近く前になりますが、奈良県は吉野にありまする知る人ぞ知る「霊界の銀座」天川村に行った時の事です。

丁度その時は村の夏祭りだったのですが、歴史の古い集落だけあって古代の神事の姿を非常に色濃く残したものでした。

天川村の夏祭り

日もとっぷり暮れた頃、最後に村の神社の境内で大きな焚火をする訳ですが、丁度山を背にした境内の隅っこに立って観ていた時、村のおじさんがやってきて、

「兄ちゃん、悪いけどちょっとだけそっちに行ってくれるか?」

と言ってきました。そんなに大勢人がいて混んでいる訳でもないのに変な事を言うな、と思いながら50センチ程横に動くと、

「おおきに。そのくらいで大丈夫や」

人が一人通れるかどうか、という隙間が開いただけです。もし焚火の行列が通るんだったらもっと開けなくちゃ、と思い、

「これからここを誰かが通るんですか?」

と問いかけるとそのおじさんはあたかも当たり前の如く夜の闇にシルエットだけが浮かぶ裏山を指差して、

「あの山から来る神様が通るんや」

つまり背にしていた山から「神」が僕の横を通って焚火のところまでやってくる、というのです......

神が棲む天川の山


先日、友人の結婚式で所謂神式の挙式に参加しましたが、神社(倭言葉では「かむやしろ」)の本殿、つまり御神体の鎮座する場所で誓い合う訳ですが、基本的に御神体とは神棚のほぼ目線上にあります。

縄文時代に「まれびと」と呼ばれていた神は大抵が海の向こうから一年に一回、つまりお祭りの日にやってくる、と信じられていました。

つまり日本の神々は水平にやってくるのです。


対して昔の宗教画からモンティ・パイソンのアニメに至るまで、キリスト教の神様は常に祈る者の上から垂直にやってきます


「天」から垂直に訪れる「GOD」

海や山の向こうから水平に訪れる「神々」 

「上から目線」なんて言いますが、西洋のGODは正にその権化。人間の思い上がりを戒められる唯一の角度に存在するものなのです。

対して日本の神々は人間と目線を共有し、一年に一回遊びにくる来客。ですから「お客様は神様です」というのも、逆に「神様はお客様です」というのも真実なのではないでしょうか。

神事に参加して疲労困憊する筆者(笑)


まあ無神論者の僕にとってはどちらでもいい話ですが.........



2012年10月13日土曜日

損をして得を取れ - 往年のJ-バンドは何故リバイバルしないのか?

昨今、ビートルズのMagical Mystery TourがiTunesで発売されたという事でにわかにBeatles熱が上昇しております。

そもそもこの作品が最初に本国英国のBBCで放送されたのは1967年(昭和42年)のクリスマスの翌日(この日を英国ではBoxing Dayと言います - 筆者がこの世に生を受けて23日後!)。


翌日の新聞では「視聴者を金で操ったビートルズ」等々叩かれまくり、「世紀の大失敗作」の烙印を押されたあの作品を45年経った今ここまでプッシュするのも「もうBeatlesブランドなら何でもいいんかい!」って気もしますが、音楽シーンとか新たに編集されているらしいので悔しいけれどかすかな期待を抱かずにはいられません......

「ビートルズ商法」と呼んでも差し支えないそんなプロモーション・メソッドですが、このような感じでストーンズやツェッペリン、プレスリーといった往年の音楽遺産が毎年リサイクルされているのが英米における音楽産業の現状です。

ところが!往年の日本のバンドとなると今流行っている若手のミュージシャンがインタビューで影響を受けた人とかリスペクトするバンドとかでいくらネーム・ドロッピングをしてもムーブメントと呼べる程にはリバイバルが盛り上がったためしがありません.....

何故なのでしょう?

昨年まで赤坂にある某テレビ局のBSで所謂懐メロ/クラシック・ロックの番組のディレクターをしていたのですが、そこで気付いた事が一つありました。

例えばビートルズとかクイーンみたいな所謂「大物ミュージシャン(笑)」の特集を組むとします。プロモ・ビデオやライブ映像の使用許可をレコード・レーベルに申請すると「60秒以内」とか「編集は禁止」といった諸々の条件こそありますが大抵は無料、もしくは予算内に収まる使用料で使えるので非常に企画しやすかったのです。

しかし邦楽となると........

.........例えば70年代に一斉を風靡し、全盛期にはオリコンチャートで一年の内半分ナンバー・ワンの座に君臨していた某女性二人組アイドルなんて映像はおろか、ジャケットを画面上で見せるだけで事務所に百万単位のお金を払え、と言われるのです.........

(洋楽の場合、大抵肖像権はレーベルとの交渉となりますが、邦楽は事務所なんですね〜)

こんな条件では予算内で番組を制作するのは不可能ですから企画段階でポシャる - つまりこれら過去の音楽資産が人々の目や耳に触れられる機会、即ちプロモーション・チャンスが権利を持っている事務所が目先の利益を追求した結果、単純に失われる訳です.......

この辺は事務所によって多少温度差はあるとはいえ、日本においては基本プロモーションで映像素材を見せるというコンセプトは皆無。あくまでも肖像権でお金を儲けたいみたいなのです。

試食は一切お断り、パッケージと能書きだけを見て買え!って事ですね。

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ちょっと話は変わりますが、数年前に話題になった「FREE」って本を御存知ですか?

この本の序章でモンティ・パイソンがYouTubeで過去のコンテンツの多くを高画質で配信した際のエピソードが書かれています。

YouTubeのモンティ・パイソン・ページには以下の文が寄せられています:

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For 7 years you YouTubers have been ripping us off, taking tens of thousands of our videos and putting them on YouTube. Now the tables are turned. It's time for us to take matters into our own hands.
七年もの間YouTubeの住人どもは俺達を搾取し続け、俺達のビデオを何千もYouTubeに無許可でアップし続けてきた。だがそんな時代は終わった。これからは俺達が主導権を掌握する時がやってきたのだ。
We know who you are, we know where you live and we could come after you in ways too horrible to tell. But being the extraordinarily nice chaps we are, we've figured a better way to get our own back: We've launched our own Monty Python channel on YouTube.
お前らが誰かも、どこに住んでいるかも知っている。口では言えないような恐ろしいやり方でお前らを追いつめる事だって出来る。だが俺達はアリエナイ位よく出来た人間の集まりだ、だからもっと効果的な方法で復讐したいと思う。だからYouTubeにモンティ・パイソン・チャンネルを自分達で作る事にしたんだ
No more of those crap quality videos you've been posting. We're giving you the real thing - HQ videos delivered straight from our vault.
お前らがアップしていたクソみたいな低画質のビデオともおさらばだ。俺達は本物を提供する!蔵出しのハイ・ビジョンのビデオさ。
What's more, we're taking our most viewed clips and uploading brand new HQ versions. And what's even more, we're letting you see absolutely everything for free. So there!
更にこれまで最も人気のあった作品ばかりを優先的にハイ・ビジョンで上げていく。もっと凄いのはこれを全部完全に無料で視聴させてあげるって事だ。どうだい
But we want something in return.
その代わりにお願いがある。
None of your driveling, mindless comments. Instead, we want you to click on the links, buy our movies & TV shows and soften our pain and disgust at being ripped off all these years.
無意味で下らないコメントとかいちいち書かなくてもいいからリンクをクリックして映画やテレビのDVDを買って少しでも俺達の苦悩やこれまで何年もの間搾取されてきた怒りを癒して欲しい........

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この結果、モンティ・パイソンのDVDの売上は2万3000倍にも上がったのです!

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今日のインターネットにおいては音楽や映像は金払うものじゃない、と考えているユーザーが大多数だと思います。

これは好む好まざるに関わらず受け入れざるを得ない毅然たる現実。

それは確かに従来のビジネス・モデルで利益を生み出し続けようとする人達に取っては容認し難い状況ではあると思いますし、それが故に今月の頭より(単なるYouTube閲覧も含まれる)違法ダウンロードに対して刑罰を適用したりしてプレッシャーをかけたくもなるのでしょう。

但しこの著作権法"改正"の裏には隠されたもっと危険な意図が別にあると思いますけどね

事実、AV◯X TRAXのようなレーベルのHPではアクセスするといきなり:

WARNING!
違法にアップロードされたと知りながら
音楽や映像をダウンロードするのは法律違反です!

という警告文が登場します.......


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例えば本屋が二件あったとします。

一件目は店内に入った途端、店員に有無を言わさずこう言われます:

万引きは犯罪ですからね!

もう一件では店員はこう言います:

どうぞ好きなだけ立ち読みして下さい。
そしてもし気に入った本があったら買って下さいね!



貴方ならどちらの本屋で本を買いますか?

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発想を転換する事、或はもっと理想主義的言い方をすれば人間の良心を少しだけでも信じてあげる事で逆境をビジネス・チャンスに変える事だって可能なのです!

そもそも肖像権や著作権を死守する事に拘ってコンテンツをお蔵入りにしたままにして一切人の目に触れる事が無ければ文字通り宝の持ち腐れ。本格的なリバイバルなんてほぼ不可能です。

英国のビートルズやクイーン、米国のプレスリーやカーペンターズがリバイバルを繰り返している裏にはそんな音楽業界の発想の転換があると思います。

逆に60年代のGSや70年代のニュー・ミュージックとか日本語で歌われている音楽であるにも関わらず日本国内ですら同じような規模のリバイバルをしない理由も正にそこにあると思うのです.......

ゴダイゴとか久保田早紀とか原田真二とかの70年代の作品は今聴いても素晴らしいと思いますし、ビートルズみたいにもっと普通に色々なところで目や耳に出来たらステキだろうな〜って思いますけどねぇ.......

 (久保田早紀/異邦人)

判ってはいても崖っぷちに追い込まれる迄は今迄のやり方を変える事は出来ない

江戸時代末期然り、大東亜戦争然り、永遠に学ぶ事を潔しとしない倭民族の本能的行動なのかもしれませんね.......

2012年10月1日月曜日

世界一難しい言語

我らが日の出づる国におきましては外国の方、特にメラニン色素の少ないコーカソイド系の方がそれこそ:

「ワタシノナマエハマイコーデス」

とでも言った日には、

「日本語、お上手ですねぇ〜!」

と手放しでべた褒めするキトクな方って多いですよね。

逆にセイン・カミュ位ペラペラになると誰も褒めなくなるので、在日外国人の間では「日本人に「日本語お上手ですね」と褒められなくなったらその時は本当に日本語が上手くなったと思って良い」なんて通説まである程。

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「日本語は難しいねぇ〜」

コレ、日本に住んでいると日常生活でよく聞くフレーズですが、そんな慣用句といい、前述の如く金髪碧眼の方が稚拙なフレーズをヒトコトでも発したらベタ褒めしたりする背景には:

日本語は世界一難しい言語

というお国自慢にもにた考えが頭のどこかにあるからだと思うのです。

果たしてそれは本当なのでしょうか?
あるいは日本人だけが勝手にそう思い込んでいるのでしょうか?

ハリウッドにある日本料理店「芸者の宿」

僕は割と世界中の色々な国に友達がいますが、仏人はフランス語の複雑な文法や詩的な言い回しのニュアンスを理解するのは外国人には無理だと言い、英国人は世界で最も同義語が多いと云われる膨大なボキャブラリーを駆使した英語独特の婉曲な表現を外国人が本当の意味で使いこなすのは極めて大変だ、と言い、中国人は何千もの漢字を全部憶え、かつtonal language(声調が異なると意味が異なる言語)を聞き分けたり喋り分けたりするのは外国人には不可能に近いと言います.........

ま、要するに世界中殆どの国の人達が自分達の喋っている言語が一番難しいって言いたい訳です!

はたして誰が本当は正しいのでしょう?



お隣韓国の方々もご多分にもれず「韓国語は世界で一番難易度が高い言語だ」と公言してはばかりませんが、恐らく英国か米国の教育機関が作成したと思われる以下のグラフィックを引き合いに出し「韓国語は世界で最も難しい言語だ」と書いてあるブログが以前ちょっと話題になっておりました:


そのブログによれば一番上にあるスペイン語とオランダ語が最も簡単で、ヒンズー語やタイ語が中級レベル、一番右下の韓国語が最上級レベルの言語だ、との事らしいですが......

......果たしてそれって正しいのでしょうか?

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「世界一難しい言語」は何なのか?

これはあくまでも私見ですが、その答えは上記のグラフィックの上方にあるフレーズ:

How close the new language is to your native language or other languages you know.
((難易度は)新しい言語があなたの母国語、もしくは知っている他言語にどれだけ近いかによる)

つまり「アナタ」にとって最もマスターするのに時間がかかる言語はアナタの喋る母国語からボキャブラリーや文法構造の接点が最も希薄な言語、という事に尽きる、と思うのです。

英語を母国語としている人達にとって日本語や韓国語が最も難しい言語であるとするならば、その逆もまた真なり、つまり英語は我々日本人や朝鮮半島の方々にとって世界で最も難しい言語である、と言えなくもないのです。

ただ英語のボキャブラリーに関しては日本語化したものも多い為、そこは若干差し引いて考える必要がある、と言えるでしょう。

更に加えて言うと、以前も拙ブログに書いた「笑い」の違いに代表される、各言語のベースとなっている精神文化そのものの違いも真の意味でのFluency(流暢さ)には考慮されなければならない重要な点と考えます。


二つの言語が文法構造的にどれだけ似ているか、若しくは異なっているかはコンピュータさえあれば簡単に調べられます。

Googleとかにある翻訳機能を使ってみて下さい。文法構造や言い回しの特性が近い言語程、より正確に訳され、異なっている程、詩的でシュールな文体になっていくのです(笑)

例えば西ヨーロッパの言語であるフランス語やドイツ語の文章をコンピュータの自動翻訳で英語に訳してみると、ところどころ不自然なフレーズが出てきたりはしますが、9割以上意味は理解出来る文章になります。英語に最も近いといわれているオランダ語や語源の異なるフィンランド語を除くスカンジナビア系言語だと更に正確な文章に訳されるのです。

これがロシア語やアラビア語になるとその正確さは若干下がってきますが、ロシア語なら6、7割は理解出来る完成度です。

ところが!日本語の文章を自動翻訳で英語にすると完全にサイケでシュールな文章となってしまい、題材にもよりますが、なんとなく言わんとしている事が理解できるのは2割程度になってしまうのです。

つまり両言語の特性や文法が異なり過ぎていて、まだ信頼性の高いアルゴリズムが確立されておらず、最近大分改善されたとはいえ、関連性を十二分に把握出来るプログラムは書かれていない、というのが現状です。

逆に英語に限らず、インド・ヨーロッパ語族の言語はおおむね日本語に自動翻訳してもやはりほぼ理解不能な文章になってしまいます。

中国語でさえ日本語に自動翻訳するとちょっと不可解な文になってしまいますね。

僕の調べてみた中で最も自然な日本語に翻訳された言語は:

「韓国語」

でした。

これに近い事が我々の脳内言語中枢においても起こっている、と考えられる訳です。

つまり僕の説によれば日本人にとって最も簡単にマスター出来る外国語は韓国語、そして韓国人/北朝鮮人にとって最も簡単にマスター出来る言語は日本語となるのです。

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「そうは言ってもやっぱり漢字をおぼえる方がアルファベットをおぼえるより難しいだろう?」と仰る方もいらっしゃるでしょう。

学習、という観点から言えばそうかもしれません。

機能性という観点からいえば........どうなのでしょう?

バイナリー・コード、つまり0と1 からなる二進法 - コンピュータはこの二つの数字の組み合わせだけをベースとして複雑な計算を行っている訳です。

究極的にシンプルなこのシステムは我々の最先端を支える文字通り科学の進歩の象徴と言えるでしょう。

それを言語にあてはめると26文字の組み合わせだけで全てを表現出来る表記システムの方が、新聞一つ読むのも千以上の複雑な記号を覚えなければならないシステムより合理的、進歩的、とは言えないでしょうか?

「漢字には横文字には無い美がある」という方もいらっしゃるでしょう。

いや、それもごもっともです。

しかしアラビア文字タイ文字(シャム文字)だって美しいと思うのです。

タイ語のキーボード

「世界一難しい言語」という観念は相対的なもので自分の母国語によりけり、という話はしましたが、では果たして「世界で最も美しい言語」というのは存在するのでしょうか?

日本人はやはり「日本語が世界で最も美しい言葉」と言いたがるでしょう。

ヨーロッパには「ドイツ語は醜くフランス語は美しい」みたいな通説がありますね。

しかしこれらの「美」の優劣を裏付ける決定的証拠なんて僕は見た事も聞いた事もありません。

「ピカソの絵とゴッホの絵のどっちが上手い?」なんて訊かれたら普通に思考停止してると思いません?

僕のように言語フェチにとっては(そしてそうでなくても)全ての言語が美しいのです。

詩人の心ある人が言葉を選択、羅列して話す時、いかなる言語であってもその言葉を解す人の心を打ちますし、魅力的な声の人が喋る言葉もまた心を奪われるものなのです。

そういった意味では言語は良くも悪くも単なるツール、使い方次第。

もっと言えば「正しい喋り方/標準語」、「良いアクセント/悪い訛」という観念もナンセンス........

........この辺は掘り下げると長くなってしまいますので次の機会に譲りますね(汗)

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我々は皆、自分の言葉、訛も含めた自分の言葉を恥じる必要はありません。誇りをもつべきです。

そして他の人達の異なる訛や異なる言語に対しても同様のリスペクトをすべきです。

実に簡単な事です。

世界中のそれぞれの言語が小宇宙そのものなのです!